2013年8月23日金曜日

考えさせ、ただ見ているだけのマネジメント -『采配』を読んで-

最近組織や人の話がやたらと続いてしまっています。が、懲りずに続けます。

『動機づけについての雑感 -内発的動機づけによる動機は内発的なのか-』『成果を決めるのは能力か意思か -意思は高めるものではないという仮説-』といった以前のエントリで、「動機」や「意思」といったものについて考察し、それらを外から動機「付ける」ことや意思を「高める」ことなど可能なのかということを書きました。

もちろん人間なので誰しも圧力がかかれば最大瞬間風速的に動機や意思は高まるでしょうし、その効果は否定しませんが、それを持続的なものにするには「真に内発的な動機や意思」が必要なのではないかと考えています。どうも今流行りの「内発的」動機づけ理論はハードではなくソフトな手法を使っているだけで、まだ外発的な印象がするのです。それもあって、上記のエントリでは、「ハーズバーグの二要因理論」をヒントに、動機や意思を直接高めるのではなく、それらの発揮を阻害している要因を取り除くことが重要ではないのかという仮説を書きました。

「動機が高まる」という結果を得るために、「動機付ける」ということ以外に方法はないのか。

そんなことを考えている時に、前中日ドラゴンズ監督落合博満氏の『采配』を読みました。別に動機がどうとかいう目的で読んだわけではなかったのですが、示唆のある内容がありましたのでご紹介。

それは、落合氏の「選手に自分自身で考えさせる働きかけ」です。言葉にするとあまりに普通すぎるので内容を引用します。落合氏は中日ドラゴンズの監督の就任直後(秋頃)に下記のようなメッセージを選手に対して送ったそうです。
来年2月1日のキャンプ初日には紅白戦を行います。
私は野球にそこまで詳しくないので正しい説明ができるか自信はないですが、普通はオフシーズン明けはまずはオフになまった体の基礎を作り直し、各人の昨シーズンの課題に照らした練習を積んで実戦向けの状態を作り、今シーズンに向けての実戦練習として紅白戦をするというイメージです。それをなぜ最初にしたのか。落合氏のタネ明かしはこうです。
何か監督からの指導があるわけでもなく、いきなり紅白戦?
選手は色々なことを考えただろう。本当にキャンプ初日から紅白戦をやるのか。ただの脅しではないのか。初日から紅白戦をこなすためには何をすればいいのだろう。紅白戦の結果によって選手を振り分けるのだろうか。
私としてみれば、「新監督の謎めいたメッセージ」によって、選手たちが12月から1月の2ヶ月間、常に野球のことを考え、自分なりの準備に取り組んでくれればよかった。
何を隠そう、それが誰からも押しつけられたのではなく、自分自身で自分の野球(仕事)を考える第一歩だからだ。
(中略)
果たして、2004年2月1日に紅白戦を実施すると、選手たちはすぐにペナントレースが開幕しても戦える状態に仕上げてきた。
何というか、「動機付け」という行為はしていないのですが、選手が自分自身で考えるプロセスを通じて、結果として押しつけられずにまさに内発的に選手の動機が高まっている様子が窺えます。落合氏は「自分を成長させるのは自分しかいない」というような考えを持たれているようで、それがこのようなアプローチの背景にありそうです。

関連して下記のような記述もされています。
自由というものが最大の規律になる。
選手の動きを常に観察し、彼らがどんな思いを抱いてプレーしているのか、自分をどう成長させたいのかを感じ取ってやる。
私はコーチングの基本を「教えない。ただ見ているだけでいい」と定義した。実際に監督としてチームを預かることになり、「見ているだけのコーチング」が基本になることは確認できた。
自由ということを規律とし、自分で考えることを重視し、その考えを観察し感じ取る。適切なサポートをする。無理やり引き出すという感じではないし、押し付けもしない。そんなところが落合氏のチームや人のマネジメントの根幹にある気がします。

そして、動機の働く本質を「自分のことを自分で考えること」に置き、自ら考えるきっかけを与える「ゆらぎ」を起こすというやり方です。「動機が高まる」という結果を得るために、「動機付ける」のではなく、「機会を作ることで考えるきっかけを与え、目を配り、観察し、考慮する」という、手間はかかるがきめ細かで間接的なアプローチが有効なのではないかという仮説。そこには以前のエントリで書いた、動機や意思を発揮することを阻害する要因を取り除くことも含まれるのでしょう。

ただ、こういった方法論は、ある程度一人ひとりが自律的に動くことを求められるプロフェッショナル的な人材に対して特に有効な方法かもしれません。組織を選ぶ手法と言えるかも。手間もある程度かかりますし、その時間コストに対する大きなリターンが見込めるかどうかも重要なポイントかもしれないです。

どんな組織にも人にも適用できる方法論という考え方自体が間違っているのでしょうね、きっと。。

2013年8月12日月曜日

追補:能力と意思の暴走に理性の果たす役割 -『ノモンハンの夏』を読んで-

一つ前の『成果を決めるのは能力か意思か -意思は高めるものではないという仮説-』で、成果を決めるのは能力と意思で、どちらかというと意思が大事で、意思そのものを外発的に高めることって難しい(他の方法はないのか)ということを書きました。

その後にある本を読んで、この2つでは成果を上げるには必要であるが十分ではないと思うに至りました。成果を上げるために必要なもの、もう一つは「理性」です。「論理」と言った方がわかりやすいかもしれませんが、いわゆる論理的思考力のような「能力」とは少し異なるニュアンスなので「理性」と書きます。

読んだ本は半藤一利の『ノモンハンの夏』です。1939年のノモンハン事件(Wikiにも詳しい説明あり)を描いたノンフィクション。多くの取材や文献をベースに関東軍の暴走が詳細に描かれており、ケースで読む意思決定の教科書と言ってもいい傑作です。中古で1円。。

・いかにして情報はゆがみ、誤った意思決定がされるのか
詳しくは一読いただければと思うのですが、関東軍の情報の主観的な選別、独善的な判断は相当にひどい。そして、陸軍としての下部組織(一出先機関)である関東軍をコントロールすべき中央のガバナンスもひどい。

著者半藤氏の関東軍への嫌悪感は相当なもので、その念みたいなものも一部感じられますが、私が読む中で拾った、関東軍の物事を進めるにあたっての誤った意思決定に至るエッセンスとして、思いつくだけでも下記のようなキーワードが挙がります。順不同。

まず根底にある独善的/主観的な情報への態度です。これらのバイアスが情報を適切に選別、分析、判断することをできなくしています。
思い込み、固定した先入観、都合の良い解釈、拡大解釈、楽観にすぎる見通し、実力の過信、弱みや現状の無視、主観的判断、過去の反省教訓化なし、自己正当化
次に、意図的/意識的な意思決定を曲げる行為。ここまで来るとバイアスということではなく、悪意のある謀略。
情報操作、意図的な情報選別、脅し、誘導、隠蔽、意図的に曲げた報告、見切り発車による既成事実化、越権行為
仕上げに、上記を加速/助長する組織文化。土壌として上述のような行為を看過する状態が出来上がります。
エリート「仲間」の馴れ合い、空気、誰が言ったかへの偏重

・能力と意思は暴走する
前のエントリに上げた、成果に必要なのは能力と意思という点。国力が当時どうだったかは置いておいて、関東軍に属した参謀たち(本件の主犯的人たち)は陸軍の中でもエリート中のエリートであり個人としての能力は文句なし、意思においても誤った方向ながら確固たる強い意思を持ち合わせていました。

では、なぜ能力と意思を押さえているのに成果(表現が難しいのですが、誤解を恐れず成果と書きます)が上がらなかったのか。また、成果が誤った方向に向かうのか。

意思と能力があれば、物事を進めたいとなるし、進められる。ここで重要となるのは、そのベクトルが正しい方向に向くか、手段は適切か、結果として方向性や手段が誤っている場合/失敗した場合に修正がきくか、だと思います。この役割を果たすのが「理性」、言い換えると客観的な「論理」であると思います。

本書の題材はかなり特異なシチュエーションと組織ですが、ビジネスにおける示唆もあります。ビジネスでもインパクトを追求する、未知の領域で新しいチャレンジをするには、不確実なゴールを追い、周囲の雑音をはねのけ、次々に訪れる様々な問題を解決して突き進む高い能力と強い意思が必要で、ある種の熱狂のようなものがそこには伴います。良い意味での暴走と言うか。むしろそうではないと新しく難しい問題には立ち向かえないこともあるように思います。

・理性を組織システムで補う
この「理性」を一人一人が能力と意思と合わせて三位一体で持ち合わせるのが理想だとは思います。ただ、上述のように、良い意味での暴走が必要となる場合、組織やチームとしてこの「理性」を担保できると強いのではないか。意思と理性の両立は思った以上に難しい。

ノモンハンの事例で言うと、組織のガバナンスが働かなかったことが悲惨な顛末を招いた要因の一つだと思います。それは関東軍の暴走を抑止できなかった、参謀本部の情報収集・分析の不足、監査の欠如(エリート間の妙な信用・馴れ合い)、権限・権力の適切な行使の欠如、組織構造ではなく人で動く意思決定、トップ層の原理原則のない意思決定などです。これらは能力がなかったということではなく、理性・論理を働かせる組織としての構造や態度がなかったということです。

・「誰が言ったかではなく何を言ったか」を根付かせる
ノモンハンの場合は上述したようにあまりに多くの暴走要因があったのですが、その中でも大きな影響を与えている、逆に言うとそれを克服できれば強力な歯止めになると思われるのは、「誰が言ったかへの偏重」であったのではないかと考えます。本書には、一部の「力」を持った陸軍エリートが意図的に情報の極解と独善的な判断をし、うまく陸軍という集団心理を悪用して押し切る様が克明に描かれています。これさえなければ、様々な情報への誤った態度や意思決定を曲げる行為の大部分は論理で抑止できたのではないか。

ビジネスでも、「誰が言ったか」に流されたり、もっと言うとその「誰か」に言わせることで社内を突破しようとすることもあるでしょう。私も正直に言って絶対ないとは言い切れない。これをいかに組織として「誰が言ったかではなく何を言ったか」をベースとできるかが肝だと思います。

DeNA南場氏の『不格好経営』でも同じような趣旨の記述がありましたね。
DeNAでは、「誰が言ったかではなく何を言ったか」という表現を用いて、「人」ではなく「コト」に意識を集中するように声を掛け合っている。誰かが言ったことが常に正しいと思ったり、誰かに常に同意するようになったら、その人の存在意義がなくなるし、”誰派”的な政治の要素ともなり、組織を極端に弱くする。
もちろん「理性」を個人で担保できれば、それにこしたことはありません。自分を常に客観視できる力。理性を意思と両立できるかは相当に高度な素養ですね。修練修練。。

2013年8月9日金曜日

成果を決めるのは能力か意思か -意思は高めるものではないという仮説-

最近、成果を上げている人、そうでもない人、その違いは何かと考えることがあります。成果を上げるために必要なもの、大きく分けると「意思」と「能力」だと思っているのですが、成果を決めるのは、どちらかというと「意思」ではないか、というのが最近の感覚です。

■意思が成果を分ける
情報や訓練の機会が充実している昨今、ある程度のレベルの仕事をしている人たちの間で「能力」の差は実はあまりないのではというのが一つ。もちろんよっぽど特殊、専門的、あるいは経験(時間)が必要となる能力となると話は違うかもしれません。また、「能力」は低ければ高める方法は(その人にある程度のベースがあれば)ありますが、「意思」は周りが強制的に高めることはなかなか難しいのも理由です。

具体的に日常の業務で考えてみても、「今日やることはきちんと今日やる」というのが仕事のベースだとすると、これを「こなす」のは意思がなくとも能力だけで何とかなります。ただ、それでは誰でもできること(やるべきこと)です。

これが「今日やることの質を今日やれる中でギリギリまで高める(粘って粘って質を高める)」「今日やることはきちんと今日やるを毎日一日も欠けずに続ける(高い質をコツコツと積み上げ続ける)」「明日やっても済むことを今日やる(優先度は低いが重要度が高いものから目を逸らさずに取り組む)」ということになると、能力だけで何とかなる世界ではなくなります。ここには明らかに「意思」が必要です。そして、これが成果を分けるところではないでしょうか。

■意思を持って仕事をするためには、失敗に備える意思が必要
上述のように、質を高めるために「こなす」ことでは必要のないチャレンジをする、絶え間なく続けることで行動の総量が増える、放置しようと思えばできるものにあえて手を出す、ということをすると何が起こるかというと、失敗する可能性が高まるということが言えると思います。

「こなす」ことで済ませるということはすなわち、人は失敗のリスクを無意識に避けているのかもしれません。リスクに気付きながらもあえて「こなす」ことを超えようとするには「意思」が必要なのでしょう。そもそも失敗をリスクとするのかどうかですが、失敗することで人は学習し活動の修正をすることができますから、失敗をうまく活用すれば、これも結果としては成果を高めるということにつながっているとも言えます。

■意思を高めることは可能か
仮に意思が成果のために重要だとして、どうすれば意思の力が働くか。最初に意思を高めることが難しいと書きましたが、世の中、ソフト/ハードで意思を高めようとする施策が流行っているように思います。動機づけ、コミットメントなどといったワードが連想されますが、どのような対象に、どのようなきっかけで、高い動機を持ち力を注ごうとするのか、これは人によりけりです。

そもそも意思というのは自律的なものであり、仮に周囲に高められることがあったとして、それを意思と言うのかは疑問です。これは、以前『動機づけについての雑感 -内発的動機づけによる動機は内発的なのか-』というエントリで論じたことに重なります。そもそも周囲に意思を高めることができるのか。表面的には高まっているように見えても、中長期的に見ると外発的な圧力で人工的に高まった「意思」によって本来のその人固有の意思が押し殺され、逆に意思の希薄化が起こるのではないかとさえ思います。

■意思の発揮を阻害している要因はないか
私の不勉強で世の中的には有名なのかもしれませんが、最近「ハーズバーグの二要因理論」というものを知りました。本旨ではないので簡単に説明すると、人の仕事に対する満足度は、ある特定の要因が満たされると満足度が上がり、不足すると満足度が下がるという裏表の関係(例えば給料が高ければ満足、低ければ不満)ではなく、満足に関わる要因(動機付け要因)と不満足に関わる要因(衛生要因)は別のものであるとする考え方です。つまり、仕事にやりがいを感じているので満足しているが、給与的には不満、という状態があり得るので、それぞれ個別に手当をしないといけないという理論です。

動機付けという言葉が使われているので少しワードが混同して話をややこしくしているのですが、意思を発揮するという観点でも、二要因理論的な考え方は当てはまらないかと思ったのです。つまり、意思が低いから高めればいいという話ではなく、意思は本来あるがそれを別の観点から毀損している(発揮できなくしている)マイナス要因があるのではないかということです。それは上述したような失敗に対する回避的な意識かもしれませんし、重要度の高い仕事に取り組めないほどの優先度に偏った仕事の圧力かもしれません。

意思を高める施策というのは活況ですが、こういったマイナス要因を取り除いてあげることが必要なのかもしれません。何の根拠もないですが、現時点での雑感として。

2013年8月4日日曜日

好き嫌いの経営 -『経営センスの論理』を読んで-

『経営センスの論理』読了。著者の楠木建氏は『ストーリーとしての競争戦略』の著者で一橋大学大学院教授。前著がなかなか面白かった記憶があったので手に取りました。内容はAmazonの書評にあるように賛否ありそうな感じで、良くも悪くも、ユルくて軽い。もともとハーバードビジネスレビューのWEBサイトに連載していたコラムを再構成した内容ということもあり、理論とか体系立った分析ではなく、まさにセンスで書いた散文を寄せ集めた内容。通勤電車でサクッと読む感じが丁度良いです。

タイトルにある「センス」についてはあまり深堀りされておらず、そこは残念。まあセンスの話はセンスでしかできないみたいなこともあるのか、論理立てて文章にするというのは難しいのだろうと思います。

ただ、寄せ集めの文章ならではの良い面もあって、それは読み手の解釈次第で散りばめられているエッセンスから何らかの意味合いを勝手に見いだすことができること。個人的に、本書には、経営における「綜合的なモノの見方」を考えるエッセンスが色々とあったかな、と思います。著者は、経営には「アナリシス(分析)とシンセシス(綜合)の区別」が必要で、「戦略の本質はシンセシスにある」と述べています。分析的なモノの見方だけでは事業を動かすとか経営(的な動き)をするといった場合には不十分、ということは、非常に重要なポイントであるように思います。

少し話がそれますが、DeNA創業者南場氏の『不格好経営』にも、コンサル出身者が事業をやる側に回る上でアンラーニング(学習消去)すべき点として、「何でも三点にまとめようと頑張らない。物事が三つにまとまる必然性はない。」を挙げていました。これ見た時あまりに的を得ていて笑ってしまったのですが、経営における物事は、常に三つにMECEにまとめられるほど単純ではなくて、もっとダイナミックにつながり影響し合っているし、デジタルに一定の軸で分解できないごにょごにょっとした何かを含むやっかいなものである。無理やり三つにまとめるという行為は、まとめている(=綜合)のではなく分解している(=分析)にすぎないということを言わんとしているのだと私は解釈しました。裏返すと、経営や事業を動かすにあたっての綜合とは、そういった分析的行為とは似て非なるものだと。

話がそれたついでに、上記に並べて南場氏が書いていたコンサル出身者へのアドバイスとして面白かったのが「自明なことを図にしない。」「人の評価を語りながら酒を飲まない。」「ミーティングに遅刻しない。」です。いやー、もう耳が痛いですね(笑)

話を戻します。

本書にある、経営における綜合的なモノの見方のエッセンスとして私が特に気になったものは、「好き嫌いをどう経営に織り込むか」「商売は自由意志」という2点です。

「好き嫌いをどう経営に織り込むか」について、どう織り込むかの解(方法論)はありません。著者は下記のようなことを言っています。
会社内での議論や意思決定では、好き嫌いについての話は意識的・無意識的に避けられる傾向がある。好き嫌いはあくまでも個人の主観だ。会社内での何らかの判断が必要となったとき、好き嫌いで決めてしまえば、意思決定の組織的な正当性が確保しにくい。客観的な「良し悪し」が前面に出てくるという成り行きになる。(中略)それだけでは他社との差別化を可能にするような面白みのある戦略にはならない。(中略)「こっちのほうが面白そう」「そういうことは嫌いだからやりたくない」という理由で物事が判断されてもいいはずだ。
確かにこれは実感値があり、実際にそういう意思決定の場面も日常の事業運営で行われますが、これをどうやって組織的な力にするかが課題かもしれません。

また、「商売は自由意志」という点ですが、ビジネスの根本原則は「自由意志」であり、誰からも頼まれていないし、誰からも強制されていない。しかし、よく経営者から聞かれるのは「~せざるを得ない」という言葉だとか。これを言った瞬間に、「商売は自由意志」という原則に照らすと、経営の自己否定となります。商売は「せざるを得ない」ではなく「何をしたいか」、戦略は「こうなるだろう」ではなく「こうしよう」という意志の表明だと著者は言います。

これも非常に耳が痛い話。事業の成長を考えるとグローバル化せざるを得ない、ビジネスモデルを転換せざるを得ない、果てには新規事業を考えざるを得ない、といったことさえ社内で話されることがあるのではないでしょうか。

コンサルティング会社マッキンゼーの中興の祖であるマービン・バウワーも、名著『マッキンゼー 経営の本質』で次のように言っています。
「経営の意思」の重要性はいくら強調しても強調しすぎることはない。システムとして経営に取り組み手法は既に盛んだが、多くの企業で効果的に実行されているとは言い難い。「経営の意思」が発揮されてこそ、経営システムは価値あるものになる。
これ、1966年の著です。昔からこの点は普遍的な問題のよう。

上述のような点に、分析的なモノの見方だけでは捉えきれない経営の肝のようなものを感じます。もちろん客観的にファクトで物事を捉えることはベースとして重要であることは言わずもがなですが、「良し悪し」や「せざるを得ない」で物事を分析的にデジタルに判断をすることは、ある意味で(一定のスキルの人材を揃えれば)誰でもできて楽な作業かもしれません。一歩先を行く突き抜けた経営や事業運営をするには、すごく直観的(センス?)ではありますが、どうやって綜合的なモノの見方を組織として経営に取り込むことができるかが、ポイントになるのではないか。すごくチャレンジングだし面白いテーマだと思います。