2013年8月12日月曜日

追補:能力と意思の暴走に理性の果たす役割 -『ノモンハンの夏』を読んで-

一つ前の『成果を決めるのは能力か意思か -意思は高めるものではないという仮説-』で、成果を決めるのは能力と意思で、どちらかというと意思が大事で、意思そのものを外発的に高めることって難しい(他の方法はないのか)ということを書きました。

その後にある本を読んで、この2つでは成果を上げるには必要であるが十分ではないと思うに至りました。成果を上げるために必要なもの、もう一つは「理性」です。「論理」と言った方がわかりやすいかもしれませんが、いわゆる論理的思考力のような「能力」とは少し異なるニュアンスなので「理性」と書きます。

読んだ本は半藤一利の『ノモンハンの夏』です。1939年のノモンハン事件(Wikiにも詳しい説明あり)を描いたノンフィクション。多くの取材や文献をベースに関東軍の暴走が詳細に描かれており、ケースで読む意思決定の教科書と言ってもいい傑作です。中古で1円。。

・いかにして情報はゆがみ、誤った意思決定がされるのか
詳しくは一読いただければと思うのですが、関東軍の情報の主観的な選別、独善的な判断は相当にひどい。そして、陸軍としての下部組織(一出先機関)である関東軍をコントロールすべき中央のガバナンスもひどい。

著者半藤氏の関東軍への嫌悪感は相当なもので、その念みたいなものも一部感じられますが、私が読む中で拾った、関東軍の物事を進めるにあたっての誤った意思決定に至るエッセンスとして、思いつくだけでも下記のようなキーワードが挙がります。順不同。

まず根底にある独善的/主観的な情報への態度です。これらのバイアスが情報を適切に選別、分析、判断することをできなくしています。
思い込み、固定した先入観、都合の良い解釈、拡大解釈、楽観にすぎる見通し、実力の過信、弱みや現状の無視、主観的判断、過去の反省教訓化なし、自己正当化
次に、意図的/意識的な意思決定を曲げる行為。ここまで来るとバイアスということではなく、悪意のある謀略。
情報操作、意図的な情報選別、脅し、誘導、隠蔽、意図的に曲げた報告、見切り発車による既成事実化、越権行為
仕上げに、上記を加速/助長する組織文化。土壌として上述のような行為を看過する状態が出来上がります。
エリート「仲間」の馴れ合い、空気、誰が言ったかへの偏重

・能力と意思は暴走する
前のエントリに上げた、成果に必要なのは能力と意思という点。国力が当時どうだったかは置いておいて、関東軍に属した参謀たち(本件の主犯的人たち)は陸軍の中でもエリート中のエリートであり個人としての能力は文句なし、意思においても誤った方向ながら確固たる強い意思を持ち合わせていました。

では、なぜ能力と意思を押さえているのに成果(表現が難しいのですが、誤解を恐れず成果と書きます)が上がらなかったのか。また、成果が誤った方向に向かうのか。

意思と能力があれば、物事を進めたいとなるし、進められる。ここで重要となるのは、そのベクトルが正しい方向に向くか、手段は適切か、結果として方向性や手段が誤っている場合/失敗した場合に修正がきくか、だと思います。この役割を果たすのが「理性」、言い換えると客観的な「論理」であると思います。

本書の題材はかなり特異なシチュエーションと組織ですが、ビジネスにおける示唆もあります。ビジネスでもインパクトを追求する、未知の領域で新しいチャレンジをするには、不確実なゴールを追い、周囲の雑音をはねのけ、次々に訪れる様々な問題を解決して突き進む高い能力と強い意思が必要で、ある種の熱狂のようなものがそこには伴います。良い意味での暴走と言うか。むしろそうではないと新しく難しい問題には立ち向かえないこともあるように思います。

・理性を組織システムで補う
この「理性」を一人一人が能力と意思と合わせて三位一体で持ち合わせるのが理想だとは思います。ただ、上述のように、良い意味での暴走が必要となる場合、組織やチームとしてこの「理性」を担保できると強いのではないか。意思と理性の両立は思った以上に難しい。

ノモンハンの事例で言うと、組織のガバナンスが働かなかったことが悲惨な顛末を招いた要因の一つだと思います。それは関東軍の暴走を抑止できなかった、参謀本部の情報収集・分析の不足、監査の欠如(エリート間の妙な信用・馴れ合い)、権限・権力の適切な行使の欠如、組織構造ではなく人で動く意思決定、トップ層の原理原則のない意思決定などです。これらは能力がなかったということではなく、理性・論理を働かせる組織としての構造や態度がなかったということです。

・「誰が言ったかではなく何を言ったか」を根付かせる
ノモンハンの場合は上述したようにあまりに多くの暴走要因があったのですが、その中でも大きな影響を与えている、逆に言うとそれを克服できれば強力な歯止めになると思われるのは、「誰が言ったかへの偏重」であったのではないかと考えます。本書には、一部の「力」を持った陸軍エリートが意図的に情報の極解と独善的な判断をし、うまく陸軍という集団心理を悪用して押し切る様が克明に描かれています。これさえなければ、様々な情報への誤った態度や意思決定を曲げる行為の大部分は論理で抑止できたのではないか。

ビジネスでも、「誰が言ったか」に流されたり、もっと言うとその「誰か」に言わせることで社内を突破しようとすることもあるでしょう。私も正直に言って絶対ないとは言い切れない。これをいかに組織として「誰が言ったかではなく何を言ったか」をベースとできるかが肝だと思います。

DeNA南場氏の『不格好経営』でも同じような趣旨の記述がありましたね。
DeNAでは、「誰が言ったかではなく何を言ったか」という表現を用いて、「人」ではなく「コト」に意識を集中するように声を掛け合っている。誰かが言ったことが常に正しいと思ったり、誰かに常に同意するようになったら、その人の存在意義がなくなるし、”誰派”的な政治の要素ともなり、組織を極端に弱くする。
もちろん「理性」を個人で担保できれば、それにこしたことはありません。自分を常に客観視できる力。理性を意思と両立できるかは相当に高度な素養ですね。修練修練。。

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