2013年7月24日水曜日

誤診 -仮説という名の認知バイアス-

突然ですが、皆さんは誤診をされた経験はありますか?死亡するまで発覚しない無自覚なものが大半だと思いますが、死後に解剖を行った結果、1割以上が生前に行った診断は誤診であったという結果を発表した論文もある(3割以上という論文も。出自Wiki)そうです。これが多いと思うか少ないと思うかは人それぞれの感覚ですが、細かな診断違いやちゃんとした医師にかかれば原因がもっと早くにわかったのにという広義なものを含めると、もっと割合は高いのではないのかというのが実感です。

最近読んだ『医者は現場でどう考えるか』という書籍によると、そういった誤診等、医師のおかす診療上のエラーの大半は、技術や知識が原因ではなく、認知の問題が大きいそうです。つまり、知識がなかったからとか、診断する技術がなかったからとかではなく、事象の捉え方、解釈の仕方を誤るケースが大半ということです。著者いわく、誤診は医師の「思考が見える窓」だとか。

では、診療においては、どのようにしてその誤った認知や解釈が生まれるのか。

診療は大体、問診(今日はどうなさいましたか?から始まる一連の問答)の情報から始まります。検査をするもしないも、何の検査をするかも、どのような症状や傾向があるのかを患者から引き出し、どのような診断の仮説を作るのかも、全ては医師の患者への質問から始まります。

著者は、「医師の質問の仕方が患者の答えを構築する」と言っています。つまり、認知や解釈の問題がある、誤診がある場合、医師の持つ知識が正しくなく患者の答えに対する解釈が間違っているということよりも、そもそも間違った答えを引き出すような聞き方をしているということとです。一般的に、「質問すること」は相手の認知を試す(答える側がどう答えるかを試す)ことのように捉えられますが、そうではなく質問者自身の認知が試される行為であると解釈できます。

本書で著者が問題にしているのは、質問をする時点で一定のフレームに回答をはめてしまう認知バイアスです。患者に何かの症状を聞く、あるいは診断のヒントになるような日常の行動を聞く際に、「Xですか?Yですか?それともZですか?」と選択肢を規定した段階で、(それが正しければ良いですが)一定の認知バイアスがかかっており、本来であればもっと患者本位に立ち、ゼロベースであらゆる可能性を考慮したオープン質問を展開すべきと指摘します。(当然実務上、数分で患者を「処理」しないといけない実務上、全てのケースでゼロベースで診療をするというのは現実的ではないとは思います)

著者は下記のような認知バイアスを例に挙げて説明をしています。

・有用性/アベイラビリティのエラー:過去の類似した事例に照らして判断する傾向
・遂行志向バイアス:何もしないより何かしらアクションを取るたがる傾向(根拠が拾いきれていなくても何かしらの診断をつける等)
・探求の達成感:一度何かを発見すると、正しい診断を行うための探求をそこでやめてしまう傾向
・アンカリング:判断する際に、特定の情報をあまりにも重視する傾向

これを読んでいて思ったのは、仮説思考型問題解決の落とし穴についてです。仮説を持つということと認知バイアスに陥ることは紙一重で、仮説を持ちながらも予断なく情報を抽出し受け止めること、仮説というフレームにしっくりはまり込まない情報が出てきた時にそれを無視しないこと、仮説に対しては必ず検証がセットであることの重要性について認識を新たにしました。

翻って、ビジネスの現場でも、日々「診断」に近い作業をすることは多いと思います。例えば、営業の場での顧客とのやり取りを通してのビジネス判断、社内での議論におけるアイデアの選別、面接での候補者の選考、などなど。仮説を持って場に臨むことは重要ですが、認知バイアスのかかった状態で判断をしていないか、自身の質問の仕方が相手の返答や議論の方向性を誤って構築していないか、再度振り返ってみないといけないなと。誤診をしないように。

2013年7月22日月曜日

提案を引き出す力 -提案を受ける側が心がけたいこと-

ビジネスは誰かが誰かに提案(営業)しなければ始まりません。プロジェクトにしろ何かのサービス/ソリューション提供にしろ、会社間でのビジネスにおいて、「提案」のフェーズは非常に重要です。今回は少し「提案」について考えてみたいと思います。

■提案の位置づけ
提案について、単に取り引きが成立すればよいという視点は近視眼的です。実行と成果を見据えた時、問題の設定、ゴール/スコープの合意、内容の質を決めるアイデア、お互いの信頼関係、協働チームとしての役割分担など、実際に案件が走り始めてからの成否を決める要素を概ね方向づけるのが、提案というフェーズです。

例えば、コンサルティングファームのクライアントに対する提案活動は、単価(当然能力も?)の一番高いパートナーやシニアマネジャークラスが担うことが多く、提案の重みがわかります。提案に際して、お金をかけてリサーチをかけたり知見のある人を引っ張ってきたり、相応のパワーをかけるものでして、提案書そのものに対価をもらってもよいレベルなのです。なぜなら、提案において行われる「問題の設定」が、プロジェクトを進めるに当たって本来は一番重要な作業なのですから。マナーの悪い企業ともなると、コンペを装ってトップレベルのファームに提案書を出させて、その内容でもって少し安く請けてくれる(ファームからスピンアウトした人がやってたりする)ブティックファームに提案書に沿ったプロジェクトを投げるというケースもあると聞きます。

とにかく、コンサルティングに限らず、モノを右から左に流すだけならともかく、今時、取りあえずぼんやりと何かやることだけ決まっていてあとは始まってから決めましょうなんてことは滅多になく、提案の段階で相当に中身にまで踏み込んだ議論がなされることが多いと思います。提案の質がその後を決める、言い換えると、ここで何も決まらなかったり、変な方向に決まったりした場合、大きく後に尾を引くことになります。

■提案を「受ける側」も提案の質を左右する
さて、ビジネスにおける提案には、「する側」と「受ける側」があります。提案の質を決めるのは、当然提案する側の力量に大きく左右されることは言うまでもないですが、一方で、提案を受ける側の「提案を引き出す力」というのが、提案の質を高めるためには重要なのではないかと最近感じています。

上述したように、プロジェクトが決まり実行に移された際に肝となる内容が方向づけられる以上、提案を受ける側、つまりその実行によって直接的に自らのビジネスにインパクトを受ける側が、提案内容に積極的に関与していくことが求められるのではないかと思います。(社内の意思決定者に向けた)提案を一緒に作る力、と言い換えてもいいかもしれません。

■提案を引き出す力
以下に、「提案を引き出す力」として、提案を受ける側が心がけたいことを書き出してみたいと思います。私は最近はもっぱら、提案を「する側」の立場なのですが、身近なケースで、この人・企業は提案を引き出すの上手だなー、こういう人・企業とはいいディスカッションできているなー、というのをイメージして書いています。

・事前に論点を(必要なら宿題を)出しておく
何をやるかは決まっていて、RFP(Request for Proposal)を投げてあとはベンダーを決めるだけというケースは別として、プロジェクトの必要性を議論するとこから始まるようなケースで、提案を受ける側って事前の準備を驚くほどしていないです。個人的統計から言うと、事前に主体的に論点出しなどをして提案する側に宿題を出す率10%未満。

もちろん提案内容について準備をするのは提案をする側なのですが、議論の出発点のレベル感を上げるために、何を聞きたいか、議論したいか、何を判断のために準備しておいてほしいか、事前に伝えておくべきです。これら、提案する側が仮説を持って臨む力量があれば良いですが、「まずはざっくばらんに・・・」とか言いながら提案する側が何も準備していないという情けないケースもあり、性善説はそんなに通用しないと思った方がいいのではないかと思っています。

・アジェンダを明確にする
一つ目に関係しますが、提案当日に何を議論し、何をクリアにすべきかをその場で最初に意識合わせをしておく必要があります。そうでないと、一方的で的外れな提案という名の手前味噌な紹介に終始されたり、途中で話が逸れてそのまま本来とは別の話を惰性で聞いて終わりということになりかねません。

これも基本的に提案する側が用意するものなのですが、これも驚くほどアジェンダを用意していない提案者というのは多い印象がありますので、別に紙でなくてもいいので最初に主体的にアジェンダは確認するべきだと思います。「今日私たちがお聞きして議論したいことはこの3つです」みたいに最初に提示してしまうのもありかもしれません。それにちゃんと答える展開を組み立てられるかで提案者の力量を測ることも可能です。

・ビジネスのゴール/課題を明確に話す
何を成すために、何を解くために提案を受けているかをはっきりと提示すべきです。提案を聞いていて、わかっているぞ感を出すためか、いきなりテクニカルな話とか瑣末な確認を入れてくる人がいますが、そんなことは後で良くて、提案者が話す内容はあくまでも手段であり、その前に目的がどこにあるのか、その目的を達成するためにどのような提案をできるのかを、しっかりとインプットしておくことが必要だと思います。これをクリアに提示できないのであれば、提案を受けるべき段階ではないのかもしれません。

相手のビジネスや課題を理解しないままに提案をしてきて、ある日あまりに初歩的なことを理解していないことに気付いて愕然とするケースというのがあるものです。意地悪ですが「弊社のビジネスのゴール、あるいは現状の課題についてどのような仮説をベースに今回のご提案を位置づけられていますか?」というような質問をしてしまっても良いかもしれません。

・場をコントロールしすぎない
ここまでのポイントと矛盾するように思えるかもしれませんが、提案を単なる説明会ではなく、内容を高める議論をする場と捉えるのであれば、目的やアジェンダは明確に定めながらも、自由に意見を出し合えて提案の既存アイデア以上の発想の広がりが生まれるような議論が可能な場づくりが必要かと思います。上下関係を意識させるためか何なのか、単に想定外を嫌っているのか、司会進行から、説明の進め方への指示、さらには質疑応答の指名まで、自身の筋書きに沿った進行をしようと場を過剰にコントロールしようとする人がいます。そういう場では提案書の内容以上の議論の発展は生まれずらいですし、今ある提案についての粗探しで議論が逆にシュリンクするという実感があります。

・真摯に聞き、真摯に応える
知ったかぶりをしない。自身の知識をひけらかすことを目的に質問しない(内容を理解し、議論の質を高めるための質問をする)。そもそもイコールパートナーとして話をちゃんと聞く。
質問には答えられる範囲ではっきり答える(駆け引きのつもりなのか、提案の質に関わる内容を変にごにょごにょ曖昧な返答をする人多いです)。わからないなら調べて答えるようにする(多分ほにゃららな感じなど適当に返さない)。答えられないなら答えられないと言う。
全て対等に同じ目的を持って議論を進める前提条件です。なんというか、提案とか抜きにして、マナーというか姿勢の問題かもしれないですが。

・期待を語る
提案者に対して、どのような強みに注目していて、何を期待しているのかを語ることも重要だと思います。これには二つの効用があって、一つは、提案する側が、何を軸に据えて提案することが望ましいのか、競合があるとしたら何を差別化のポイントとして打ち出すことが良いのかを考えるヒントになる点です。もう一つは動機づけ効果です。そんなものビジネスを取りに来ているんだからなんでこっちが動機づける必要があるんだという考えもあるかと思いますが、結果として自身のビジネスに跳ね返ってくる内容で、大したコストもかからずに提案の質が上がるのであれば、やっても損はないのではないでしょうか。社内で部下に何か提案をしてもらう時には皆さん普通にやっていることだと思いますが、それを社外に対してもやるだけです。

・アイデアを積極的に出す
アイデアは提案する側が出すものとは限りません。当然、ビジネスのインサイダーたる受ける側の方が、よりビジネスにおけるニーズや課題解決のポイントをわかっており、このようなアイデアややり方であれば目的を実現できるのではないかという仮説は提案者以上にリアリスティックに持てるのではないかと思います。

あまり提案者のケイパビリティやイメージに縛られず、「例えばこういったことってできるんでしょうか?」という問いかけをすることは非常に有意義だと思います。そこでダメな提案者なら「うちはこれこれをならできますが、それはちょっと・・・」と紋切り型の対応をするでしょうが、目的に対してコミットして提案をしようとしている提案者なら、手段としてどのような方法(他社と組むとか)があるのか考えたり、あるいはそのアイデアに着想を得て「少し違いますがこういったことなら・・・」と提案をしてくるでしょう。

・ネクストステップを明確にする(そして、やる)
これもまた提案する側がしっかりとグリップすればよい話の一つかもしれませんが、「じゃあそういうことで(どういうことで?)」「また何かあったら教えてください」「適宜情報交換させてもらえれば」みたいな締りのない終わり方をしないことです。可能性がないならお互いの時間の無駄ですからはっきりと次はないことを伝え、条件付きで可能性があるのならそれを確認するための宿題を決め、具体的に前に進めるのであればもう一度合意した現時点での方向性を確認し進め方とタイムラインを決めるべきです。

そして、決めたら、やる。提案をする側が宿題をしないのは問題外ですが、提案を受ける側が宿題をちゃんとやらずに次の打ち合わせに臨み、「いやー実はまだ確認が取れていませんで・・・」と全く前回と同じ議論で堂々巡りをするというケースというのはよくある話です。

・不必要に大勢で参加しない
これだけ少しレベル感違う気もしますが。特に内資の大企業に多いですが、提案となるとやたらと関係者を集めて大人数で聞きに来る企業があります。そのメンタリティを考えてみると、実行まで見据えて関係者を巻き込んでおこうとしているのか、はたまた意思決定の責任を分散すること(お前も聞いていたよな効果)を狙っているのか、よくわかりませんが、そういう場というのは、非常に静か(別に注意を傾けて聞いているということではなく関心が薄いだけ)で、質疑応答でもあまり質問が出ず、出たと思えば本質に関係のない自身の立場を代表した質問で、もちろん一つの目的に向けて自由に発想を広げてアイデアを出したり議論をしたりということなど期待ができないというのが経験上の印象です。情報共有だけなら、後で個別にやりたいところです。

【番外編】
・遅刻しない、敬意を持った言葉づかいをする(などの最低限のマナー)
くだらないですが、意外と重要かも。こういう最低限のことできない人(意識的/無意識的に業者扱いしてしまう人)って意外と多くて、そういう対応を見せていると、相手も次第にルーズになります。提案する側の準備も(半分無自覚に、半分意図的に)おろそかになり、提案の質もどんどん下がります。


こう書いてみると、ビジネス上あまりに当たり前なことで普通やってるだろうという内容が多いですが、自身が「お客様」の場合、意外とこの当たり前がしっかりとできていないことって多いのではないでしょうか。文中にも書きました通り、提案をする側がパーフェクトに提案と議論を組み立てられる提案者なら気にしなくてもいい内容も多いのですが。実際はそうでもないことの方が多いですから。。

2013年7月17日水曜日

時間を売るビジネスの辿る道 -労働集約的産業化しつつあるSIやコンサルティングを例に-

突然ですが、弁護士ドットコムというサイトをご存知でしょうか。いわゆるプロフェッショナル業の最たるものである弁護士がサイトで検索できて料金表がネットで公開されている、そんな時代になっているのですね。当然、複雑な事案や(一定規模以上の)企業法務などはまだまだ取り扱えるファーム・弁護士は限られているでしょうし、その(希少)価値は薄れていないとは思いますが、大部分の一般的事案についての弁護士業務は相当コモディティ化が進んできている印象を受けました。

一般的に、誰でもできる(誰でも価値の変わらない)仕事や代わりの仕組み(機械やシステムなど)に置き換えることのできる仕事、いわゆるコモディティ化しつつある仕事というものは、どんどん値引きの対象となったり、代替事業者(国)の脅威にさらされることになります。さすがに弁護士業務はかなりローカル性の強い商売ですので、国内の小さな案件ベースに国外の事業者が入ってくることは当面なさそうですが、国内における需給のバランスや業務内容の定型化などから横比較圧力、値下げ圧力は強まると思います。

■ペイ・フォー・タイム(pay for time)への値下げ圧力
プロフェッショナル業のコモディティ化。SI(システム・インテグレーション)やコンサルティング、会計・監査などが同じプロフェッショナル業の例として想起されますが、稼働した時間に課金する、ペイ・フォー・タイム(pay for time)が基本的な価格体系であることが共通点として挙げられます。

私の周りを見ている中での印象では、ペイ・フォー・タイムで提供されている仕事やサービス、つまり時間単価/人工(にんく)を出して時間に課金している仕事やサービスというものは、大体が値下げ圧力の渦に巻き込まれているように感じます。SIにおけるプログラミングやテストといった業務などは典型ですが、最近はコンサル業界においても、話を聞く限り一部では値下げ圧力がかかっているようです。私は弁護士業務には詳しくないのでよくわからないのですが、価格が廉価になってきているという状況はあるのでしょうか。

私は、ペイ・フォー・タイムな仕事やサービスの提供をするということは、値下げ(切り)を許容したということとほぼ同義と捉えています(当然当事者はそのようなつもりは毛頭ないと思いますが)。上記のような業界では、クライアントへ出す見積もりは大体が時間単価・人工(にんく)を積み上げる方式。これってクライアントからすれば非常に勉強してもらいやすい価格体系でして、「このモジュールいらないから削って」「こんなシニアな人つけなくていいから抑えて」「ここは社内でやります」「XXさん高いよね、外してもらっていいですよ」「よそでは同じこといくらでやるって言ってましたよ」というような具合です。

■ペイ・フォー・タイムは知的生産の工業化
このペイ・フォー・タイムのモデルにおいては、プロジェクトがフェーズやタスクに細分化され、それぞれに各クラス/職種が何人日必要かというシンプルな論理で値付けがされます。価格は個人ではなく、クラス(職位)や職種に応じて付くものであり、均質なアウトプットが前提です。あまり個は重要ではない匿名な世界です。職務の細分化による知的生産へのテイラー主義の導入、知的生産の工業化、と言えるのかもしれません。

製造業(の製造ライン)をイメージしてもらえればわかりやすいと思うのですが、工業における、型を作り高いレベルで均質を保ち、生産性を上げ、コスト効率を1円単位で高める動きが知的生産にも及んでいるということだと思います。現にSI事業のオフショア/ニアショア化の流れは製造業の過去の流れを想起させます。

■かつてはペイ・フォー・バリュー(pay for value)だった?
上述したようなSIerやコンサルティング会社も、まだそういった事業者が提供する情報やノウハウ、人材に希少価値や新規性が高かった時代、価格設定は内部的に見るとコスト積み上げ方式であったかもしれませんが、クライアント企業から見ればバリューや場合によっては個々人に値段が付いていたのかもしれません。下記のようなアウトカムに対して値付けがされる、あるいはその人個人に値付けがされる世界です。

・ペイ・フォー・パフォーマンス(pay for performance)
⇒プロジェクトの結果にコミットし、誰が何時間働いたということではなく成果に応じて報酬を受け取る

・ペイ・フォー・バリュー(pay for value)
⇒他では提供のできない希少価値や模倣困難な価値を提供することで、(場合によっては言い値で)価値に対して値付けをする

・ペイ・フォー・パーソン(pay for person)
⇒グレーヘアコンサルタントや人気キャバクラ嬢のごとくバイネームでの指名買いを獲得する(同じ時間課金でも指名であることにペイ・フォー・タイムとの違いがある)

今でも、特にコンサルタントはとにかく密度高く長時間働く労働力としての価値は非常に高いですし、(事業の)時間を買うという観点で価値がついているケースもあるとは思いますが、情報の非対称性が解消され、知見がクライアント企業に取り込まれた(外部企業の提供する知見の価値が相対的に下がった)現在、提供する役務はある程度コモディティ化していると言えます。「知的」労働集約的産業と言い換えることができます。

そうすると視点が価値ではなくコストに向くのは必然でして、この流れがペイ・フォー・タイムなコスト構造を顕在化させてきたのかもしれません。こうなってきますと、価格での競争ルールが働き始め、そのことがコモディティ化を加速させるという、負のグルグルが回り始めます。

■目先の安定のためにペイ・フォー・タイムを選択しない
先のパフォーマンス/バリュー/パーソンに対して対価をもらうモデルは、個人的には下に行けば行くほど難易度が上がり、一つ上の実績が次のモデルを実現する上で必要になる要素である気がするのですが、いずれにせよこのような値付けを行う(売り方をする)ことは簡単なことではありません。反対に、ペイ・フォー・タイムなビジネスは、価格の根拠の説明がしやすいので、売りやすい(営業しやすい)という特性があります。乱暴なことを言うと、一度価格テーブルさえ決まってしまえば、あとはオペレーティブに回せるので考えなくてもいいのです。企業やプロジェクトの規模が大きくなった場合の、コスト管理のしやすさもピカイチです。

ただ、ビジネスの持続可能性、コモディティ化のリスクを考えると、理想としては上記の3つのモデルいずれかを志向する必要があるように思います。短期的な視点に立つと、ペイ・フォー・タイムな仕事は安定していてむしろリスクが少ないという見方もできるため、そちらに流される(自然な)圧力は組織にはありがちだと考えていまして、それに抗うことを常に意識する必要があります。

ペイ・フォー・タイムを個人の評価に置き換えてみてもわかりやすいです。つまり、時間いくらの世界で評価されるような人材であることをどのように考えるのか。成果で評価されないことは確かに一時を考えると楽なのですが、成果で測られないことでホッと胸をなで下ろしてはいけないと思います。確かに単年で成果が出ずクビを切られることはありませんが、それは安定を意味するのではなく、代替可能性(仕事の外出し、あるいは自身の非正社員化)や価格(報酬)下落のリスクを意味すると考えた方が良いと個人的には感じています。

ビジネスとして時間を売ること、個人として時間で評価されること、いずれも短期視点では楽なのですが、時間を売るということが必ず辿る道があるような気がしたので書いてみました。

2013年7月6日土曜日

養殖人材 -コンサル出身者が事業会社で働くということ-

野菜や果物は旬がおいしいし、魚は天然ものがおいしい。でも、ハウス栽培や養殖は年中好きなものが食べられるし、質は一定だし、そこに価値がある。季節はずれなミカンを食べながら、人材にももしかしたらそういうことが言えることもあるのかもとツラツラと考えていました。

■養殖人材の価値
何かというと、最近採用面接をしていたり前職での経験からあくまで個人的に思うことなのですが、事業会社から見てコンサル出身の人材に養殖的なものを感じるのです。コンサル(出身)人材は、養殖とかハウス栽培と似ていて、一定のスキルセットを均質に安定供給してくれて、それでいて少し高い(給与水準が)。言語も一緒なので同僚になったDay1から話が早いですし、仕事をする上での呼吸もなんとなく合います。
(これは、私がコンサル出身という前提に立った話ではありますので一般化はできないかもしれませんが、コンサル出身者を多く採用する楽天やユニクロといった会社では部署の周りほとんどがコンサル出身者で大変仕事はやりやすい、でもこれコンサルプロジェクトと何が違うのという状況が多くあると聞きます)

ただ一方で、養殖ものやハウス栽培のメタファーで言うと、飛び抜けてフレッシュだったり、何これめちゃくちゃうまい!となったり、滋味あふれる感じもない。事業会社で必要とされるエッジの立ち方というのはコンサルタントとしてのそれとは異なるというのが私見です。
(念のため断わっておきますが、だからと言ってダメということではなく、(一部)事業会社のコンサル人材ニーズは確実にありますし増えているのではないでしょうか)

■養殖のコモディティ化
確かにコンサルタントとして、あるいは頭の切れという意味でめちゃくちゃ尖っていて、キレキレな人がいることは確かです。ただ、そのいわゆるコンサルタントのスキルセットというものも徐々に(部分的に)一般化してきているところがあって、スキルセットのコモディティ化が少しずつジワジワと進んでいるように思います。

ハウス栽培や養殖で考えると、最初は市場ニーズのあるものを旬以外にあるいは安定的に供給しますし、供給体制も限定的なので価値は非常に高いのですが、その技術や方法さえ確立されれば、安定供給そのこと自体の相対的価値は低下し、技術や条件さえ揃えば誰が作っても基本同じになり、程度の差はあれその収穫物はコモディティ化していくと思うのです。

上で、ハウス栽培や養殖は少し高いと言いましたが、昨今は必ずしもそうではないものも多いように思います。同じように、コンサル人材に対する事業会社の目も、どうしてそこまで社内の人間と比較して相対的に飛びぬけて高いスキルセットでもないのに、そんなに高いサラリーを払う必要があるのか、という議論が今後起ってこないとも言えないのかなと。私の知る限りまだそのような話は聞きませんし、コンサル出身者に対する一部事業会社のニーズは未だに活況ではありますが。

■いけすの外に出る耐性
養殖ものやハウス栽培は、その生育環境は非常に整えられていて、外的な要因や変化になるべくさらされないように育てられているところがあります。逆に言うと、外的な要因や変化に弱い。詳しく知らないので間違っているかもしれませんが、いけすの外に養殖マグロが放り出されたり、ハウスのイチゴをそのまま外に植えた場合、その環境に適応はできないのではないでしょうか。

また、養殖やハウス栽培は、基本的には一種(マグロならマグロ、イチゴならイチゴ)を一つの囲いの中で育てるものだと思います。純血培養と言いますか、多様性とは無縁の世界です。

上記をコンサル人材に当てはめるのは多少乱暴かもしれませんが、実態として、事業会社に来てみたはいいけれど、環境や仕事の進め方に馴染めなかったり、事業会社人として求められるパフォーマンスを発揮できなかったり、異なる価値観を受け止められなかったり、理由は様々あれど割とすぐにギブアップしてしまい、また別の会社に行ったり、コンサル会社に戻ったりという人はよくいます。
(もちろん当人には当人の主張する理由がありますし、一概に本人の耐性が低いということだけではないとは思います)

■多様性という組織の方向性
今後(というか今?)の組織におけるキーワードは「多様性」かと思います。最近DeNA南場さんの講演が話題になっていましたが(この全文書き起こし、かなり拡散していましたがお勧め)、「人は多様である方がいい。チームは多様なメンバーから組成されていた方がうんと強い」「本当に単一のまったく似たようなメンバーの組織はまとめやすいんだけれども、変化に弱いし、改革に弱い。」といったことを言われています。

当たり前なのですが、事業会社生え抜きで経験を積んでいることが偉いわけでも、コンサル出身である種特殊なスキルを身につけてきたことがすごいわけでもなく、それはただ異質なだけで、良し悪しではないということです。(ビジネス)人種が違うから無理と決めつけるでもなく、自分のキャラクターの角を丸くするでもなく、その多様な価値観や人を受け止め、その中で自身をポジショニングするということが求められているのだと思います。
(上述のように、スキルセットのコモディティ化は多少はあると思われるため、いずれその部分での異質感は多少薄れてくるかもしれませんが、コンサルで培えるものはそれだけではないと考えています)

逆説的ですが、多様性が求められている流れは、コンサル出身者には追い風だと思っています。ともに働く仲間の多様性を受け入れることさえできれば、それこそコンサルティングワークの中でまさに多様な組織や人を見ている訳ですし、自身も事業会社から見ればある種異質なマイノリティな訳ですし、その多様性の中でうまく自身をポジショニングし、その多様なチームをマネジすることに適性があるのではないかと、個人的にはプラスに思っています。

いけすの外に出ても変化に対応して進化できる養殖ものって結構強いのではないでしょうか。

2013年7月3日水曜日

計画された偶発性(Planned Happenstance) -創発的なキャリアのススメ-

人生なんて計画通りにいかない。でも、計画から逸れた脇道で思わぬ発見や出会いがあり、それがまた新たな道になる。

人生やキャリアについて、私はこのように最近特に良く感じています。後付けではきれいな筋道立ったストーリーにしてしまうのですが、キャリア一つとっても、あの時あのプロジェクトやってなければ今のこの道はなかったなとか、あの時あの人に会ってなければ今の会社にいること(そもそも自分が働く場として興味を持つことすら)なかったなとか、皆さんありませんか。これは別に転職を幾つか経験している人だけでなく、同じ組織の中での異動という経験も含めて言えることではないかと思います。

実際、あとでご紹介する記事で紹介されている米国におけるある調査結果では、18歳の時に考えていた職業に就いている人は約2%という数字もあるそうです。ものごとは計画通りにいかないし、それでいい。

■「計画された偶発性理論」(Planned Happenstance Theory)
この、感覚としてはすごく実感値のあるキャリアのあり方を理論化したのが、「計画された偶発性理論」(Planned Happenstance Theory)です。この理論の提唱者は、スタンフォード大学教授のJ.D.クランボルツ氏。「計画」と「偶発性」という本来相反する言葉が一緒になっているところが味噌でして、自らが計画して起こした行動から、自分を成功へと導く偶然のチャンスをつかみ、それをその後の人生に生かそうとするキャリアづくりが、「計画された偶発性理論」。最初にこの理論を目にした時には、やっぱりそうだよなと我が意を得た感覚になりました。と同時にこれはサイエンスとしては厳しいのではと思ったり。

これ、別に偶然をただ座して待つとか棚ボタ狙いとかそういうことではなく、積極的に意図して偶発的な機会を捉えるための種まきを絶えずするということです。「計画された偶発性」(Planned Happenstance)なのですが、イメージとしては「意図された偶発性」(Intended Happenstance)といった方が近いような。

この理論では、偶然の出会いや出来事を生かすキャリアづくりの基本スタンスとしての「オープンマインド」を挙げており、その上で、次の5つのポイント「好奇心」「持続性」「楽観性」「柔軟性」「リスク・テイキング」が重要であると言われています。こちらの記事で概要はわかるのではないかと思います。

■創発的なキャリア
このキャリア理論、言い換えると「動的」(Dymamic)なキャリア、「創発的」(Emergemnt)なキャリアです。個人的にしっくりくると同時に既視感があったのですが、戦略論で言うと、ミンツバーグの創発的戦略に近いですね。個人的に一番好きな戦略論です。

少し話が逸れますが、ミンツバーグの創発的戦略とは、いわゆるポーターの計画的・分析的戦略論(5 Forces等)へのアンチテーゼ(ただし、計画を否定はしていない)であり、ポーターが戦略立案に対して普遍性の高いモデル作りを前提に議論を進めるのに対して、そのような分析的なモデル”のみ”の非現実性や実効性の低さを指摘し、戦略の「創発」という考え方を考慮すべきであると主張するものです。

創発(Emergence)という言葉についてWikiで引くと下記のようにあります。分析とは往々にして要素分解をしその独立性を前提にして進むことが多いですが、そんなに世の中パキッと分解できるものばかりではなく、個々の要素が実際は複雑に絡み合い、その中から当初は予測し得なかった事象が起こることもあり、その総合として全体としての事象は成り立っているということかと。
部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れることである。局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。
ミンツバーグの立場は、つまり、戦略というものは理路整然と分析され計画されて後は実行すればいいというものではなく、日行業務の中で知らず知らずのうちに生まれてきたり、意図があるとしても試行錯誤の中で次第に形成されていくことが多いものだという認識かと思います。ケースとしてはホンダ(オートバイ)の米国市場への進出が有名ですので、興味のある方はググっていただければ色々と出てくると思います。

また、計画と創発にはそれぞれフィットする環境というものがあります。大きく大別すると、計画がフィットする環境は、前もって予見し意図的に追求できる機会。創発がフィットする環境は、予見可能性が低い世の中。これはキャリアにも言えて、キャリアにおいても偶発性に重みを置く重要性が高まってきているということは、この計画と創発の対比のメタファーで考えると理解しやすいと思います。

■とは言え、計画も重要
理論名にも「計画された」とあるように、偶発性をただ漫然と待つのではなく、計画(というより意図や準備?)をしているかどうかが重要と言えます。対比で出したミンツバーグの理論においても、上述の通り、計画を否定している訳ではなく、計画(統制)と創発(学習)のバランスが重要だと述べられています。

ただ周りの環境に合わせたり会社や上司に言われる通りに道を進めれば、気付けば全く軸のないキャリアになっている可能性もありますし、自ら動くにしても意図や準備なくただジョブホッピングするということも偶発的な機会を活かしているというよりは目の前にある機会に正面から向き合えずそこから逃げ続けているというケースが多いように思います。

以前、ライフネット生命出口会長(当時、社長)のお話を聞く機会がありましたが、その中で起業に至ったのは、偶然に持ちこまれた話との出会いがあり直観で決めたというようなことをお話をされていました。ただ、その直観は勉強で培われるものだとの但し書き付きで。当然その出会いもそれまでの人脈やご経験の蓄積の上にあるのかと思います。この記事では、偶然自分に吹いてきた風を上手に掴んで凧を揚げることに成功したとなっていますが、風が吹いた時に凧を持って走る準備をできているかどうかは重要なことです。私の卑近なキャリア感と対比するのはおこがましい例ですが、それほどの方になっても、やはり準備が機会を捉えるためには必要だと考えておられるのだと感じました。

また、少し文脈はキャリアとは異なりますが、デザイナー奥山氏の下記講演にある「いつ来るか分からない15分のために常に準備をしているのがプロで、来ないかもしれないからと言って準備をしないのがアマチュア」という部分は、意味としては近いかと思います。要は準備をしているからこそ捉えられる機会ということであり、準備をしていない人にはその機会は捉えられませんし、それ以上に機会が目の前にあることに気付かなかったり、気付いたとしてもキャッチアップできないあるいは逃げるしかないということになりえます。

いつ来るか分からない15分のために常に準備をしているのがプロ、デザイナー奥山清行による「ムーンショット」デザイン幸福論

■創発的なキャリアを歩み続けるには
準備せずにただ偶然に身を任せることの危うさは上述した通りですが、もっと危ういのは、計画されたレールに乗るだけで、偶発性に目を向けられず変化に対応できなくなることかと思います。特に、この予見可能性が低い世の中においては。今、グローバル化、人工知能などのマシーンによる代替など、キャリアを左右するさまざまな外的要因が増えてきています。これは、最近流行りの働き方のシフトについての論述でよく見かけるものです。

そういう意味では、私の関心は、どうやって創発的なキャリアを職業人生の最後まで歩み続けることができるのか、計画された偶発性を活かし続けられるのか、です。今、仮に創発的なキャリアを歩めている人でも、創発的なキャリアをとれなくなることは多いと思うからです。それは様々なライフイベント(結婚、子供、ローン・・・)が起因するのかもしれませんし、専門性や地位を築くことでできる考え方の固定化かもしれません。これをどうやって打破するのか。

ちょっとまとまりありませんが、最近の関心事をつらつらと。