2012年4月19日木曜日

デザインが直面している変化 -i.school春のシンポジウム「融合するデザイン」に参加して-


少し時間が経ってしまいましたが、先日、東京大学のイノベーション教育のプログラムであるi.schoolのシンポジウム「融合するデザイン」に参加してきました。シンポジウムは、LG Electronicsデザインセンター長のKun-Pyo Lee氏の基調講演と、ナレッジマネジメントの第一人者である紺野登教授ら複数名の識者のパネルディスカッションが中心の構成でした。

全体を通して、特にLee氏の講演が興味深かったです。最近LGをはじめとした韓国企業は、ブランド力で欧米では上位常連になっていたり、デザイン・技術の面でもリーディングカンパニーになりつつありますが(なってる?)、そのデザイン戦略・思想の一端を垣間見ることができました。ちなみに、LGと言えば、最近この「曲がる電子ペーパーディスプレイ」が話題になりましたね。

氏の講演の中で私が特に興味深いと思った点は、元来デザインを生業にする人たちの中にあるデザインの定義や役割の変化に対する問題意識の存在です。ビジネスにおけるデザインやデザイン・シンキングの重要性がホットになってきていて、職業的デザイナーではない人たちのデザインに対する関心・理解は広がってきている一方で、このような危機感が生まれているということは新鮮でした。

具体的には、「What?(何をデザインするのか)」「by Whom/for Whom?(誰が誰のためにデザインするのか)」という2点についての問題意識が強いという印象を受けました。
(Lee氏が直接的にWhatとWhomに問題意識があるとおっしゃっていた訳ではないので、念のため)

・何をデザインするのか(What)
一言で言うと、従来型のプロダクトデザインの領域におけるデザインの余地が減ってきているという問題意識です。Lee氏は"form is disappearing"という表現を使われていました。

冗談交じりに言われていたのが、「スマートフォンのデザインの余地は背面にしかなくなってきている」というもの。確かに「スマートフォン」で画像検索するとどれも似たようなフェイスですし、薄くなっているので側面にもデザインの余地はなく、UX(ユーザー・エクスペリエンス)もアンドロイド等のOSの制約を大きく受けるため自由度はそこまで高くないということです。

また、テレビも自立型から壁掛けになりデザインできる部分が少なくなり、さらに超薄化が進むと、究極は壁に引っ掛ける電子ペーパーのようになってしまうのではないかと。このCMは現在のテレビを象徴していますね。

Thief Cleverly Steals a Thin LG Television

・誰が誰のためにデザインするのか(by Whom/for Whom)
こちらは"users are getting bigger"という表現を使われていましたが、デザインする人とされる人の役割や関係がどんどん変化してきているというお話でした。ユーザー(もはや単なるユーザーとも言えない)の声が大きくなってきていて、デザイナーが推し出すデザインで簡単に満足して従うような状況ではなくなってきたと言います。

デザインする人とされる人の関係性や役割は、時系列で下記のような変遷を遂げているとLee氏は表現されていました。(左がサプライサイド、右がデマンドサイド)

・1950年代以前
craftsmen(職人)-neighbors(隣人)
職人がよく見知った隣人にテーラーメードしていた時代
・1950年代~1970年代
expert stylist(エキスパート・スタイリスト)-consumer(消費者)
その道のエキスパートが「これだっ」と提示したものを消費していた時代
・1980年代~1990年代
observer(観察者)-user(ユーザー)
実際にモノを使う人をしっかりと観察し、そのニーズに見合ったものを提供していた時代
・2000年代以降
facilitator(ファシリテーター)-participants(参加者)
モノを使う人がそのデザインプロセスにも参加し自分のほしいモノに関与する時代

一方的にサプライサイドから出ていた左から右の矢印(→)が、デマンドサイドのニーズを吸い上げる矢印(←)になり、さらには参加型ということで相互的な矢印(⇔)になってきています。デザインへの発言力というパワーバランスの意味でも、実際にアイデアを出す役割という貢献度の意味でも、デザインが「誰によって」「誰のために」されるのかという2つの「誰」の主体が両者とも徐々にデマンドサイドに移っていることがわかります。極端に言うと、使う人が自分が使うためにデザインする、というような世界でしょうか。

・これからのデザインは(What/Whom)
では、「これから」はどうなるのか(なるべきか)。デザイナーは何をする人になっていくのか。

まず、WhatについてLee氏は、LGの一つの戦略として「融合(convergence)」を掲げておられました。Whatの一つの選択肢として、iPhoneのようにまったく新たなデバイスやインターフェースを創造するという選択肢もありますが、事業コングロマリットのLGとしては色々なデバイスやメディアを通じてユーザーの持つ情報や生活シーンをシームレスにつなぎ、より快適な生活をプロデュースするという点をコアとしていきたいというお話でした。
(ここは正直どこのメーカーも言っているような話なので、あれ急に普通な話になった??な感じでしたが。。)

また、Whomについては、これからのデザイナーは「frameworker(フレームワーカー)」であるとおっしゃっていました。キーワードは、「Crowd」「Collective」「Open」。Wikipediaやオープンソース(Linux等)、アイデアコンテストのように、ユーザー群の知恵を汲み上げる枠組みをデザインできる人が、これからのデザイナーだという話です。

少し話がそれますが、IDEOのCEOティム・ブラウン氏が最近の講演動画で、同様の趣旨のことが話されていました。ユーザーとの関係が「for」から「with」そして「by」になってきているという話です。「OpenIDEO」というユーザー主導のイノベーションプログラムもこの流れですね。また、Paul Saffoという人の言葉として、19世紀は「the industrial economy」、20世紀は「the consumer economy」、そして21世紀は「the creator economy」という言葉も紹介されていました。これは職業としてのクリエイターの時代ということではなく、万人がクリエイターであるという意味合いです。

この動画、もしよければ下記よりどうぞ。40分弱と少し長め。

Tim Brown presentation

・デザインはなぜ変化に直面しているのか
ここは講演で言われていたことではありませんが、なぜ今デザインにおけるWhatとWhomが変化に直面しているのかを考えてみると、逆説的ですが、デザインへの理解が広がってきているということが背景にあるように思います。つまり、「Why?(なぜデザインなのか)」「How?(デザインとはどのようなものか)」についての理解の広がりです。

WhyとHowについての理解が広がると、なぜWhatとWhomが変化に直面するのか。単純化して言うと、下記のような構造だと思います。

・WhyがWhatの変化をもたらす
デザインの意味や重要性が理解されると、デザインにはより本質的な役割(問題解決)が求められるようになります。表面的あるいはギミック的なデザインは淘汰され、何をデザインすべきなのかが本質的な問題として浮上してくるように思います。

・HowがWhomの変化をもたらす
デザインの方法論がより一般的になると、技術としてのデザインがいわゆるコモディティ化し、デザインを担う(あるいは理解する)人の幅が広がるように思います。

上流のWhyと下流のHowが、中間のWhatとWhomをサンドイッチしているような感じ。デザインの意義が理解され、より一般的になるにつれ、デザインの再定義の流れが加速するということは非常に面白い現象だと思います。デザイナーあるいはデザインがこれまでの役割やスコープに留まると恐らくデザインはコモディティ化してくるでしょうし、一方で、デザインが新しいステージに進む一つの機会・転機でもあるかと思います。

最後にLee氏が引用されていた進化論のダーウィンが言ったとされる有名な言葉を。(ダーウィンが言った訳ではないという説もあるらしいですが。。)
”It is not the strongest of the species that survives, nor the most intelligent, but the one most responsive to change.”
「この世に生き残るものは、最も力の強いものでも、最も頭のいいものでもなく、変化に対応できる生き物だ」

2012年4月15日日曜日

未来のためのデザイン -「信じられるデザイン」展を鑑賞して-




昨日、ミッドタウンで開催されている「信じられるデザイン」展に行ってきました。
「信じられるデザインとはどのようなものでしょうか?
  そのデザインはなぜ信用できるのでしょうか?」
この問いに対して、デザインに関わりのある51名のクリエイターが、それぞれの解釈をメッセージとして寄せ、合わせて「信じられるデザイン」であるモノ・コトを一つピックアップして紹介するという内容。

多くのクリエイターの方が、「信じられるデザイン」として、「安心安全なもの」「愛着のあるもの」「定番なもの」「堅牢なもの」を挙げられていました(私の印象です)。例えば、日本の新幹線のシステム、日本メーカーのウォシュレットトイレ・体温計、昔から使っている茶碗、といったものです。たまたまでしょうが、(確か新幹線など)1つのものを2人以上がピックアップしていたケースもありました。

そんな中で、興味深い解釈をされていたのが、デザイン・コンサルティング会社Zibaのディレクター濱口氏のパネル。この方、以前このブログで論文を取り上げさせていただいた方です。実は今回見に行ったのも濱口氏がきっと新しい視点をくれるに違いないと直感的に思っていたから。

引用していいのかどうかわからないけど、パネルに書かれていた一部を抜粋。肝心のじゃあ何(モノ・コト)が「信じられるデザイン」なのという部分は直接会場に足を運んでご覧になってください。
「信じる」ということは、「信頼する・信用する・安心する」とはずいぶん違う。そもそも、確かなことや正しいことは信じなくてよい。実は「ふつうのモノ」や「かんぜんなモノ」ではなく、どこか未完成で、もしかすると裏切りがあるかもしれない「あやういモノ」こそが信じる対象となる。例えば、我々の未来はあやういからこそ信じたい。 
「信じる」には理由を超えた意思決定がなければならない。そしてそこには自由がある。敢えてあやうさを選ぶ自由。裏切られる自由。自らが失敗する自由。あやうさの先を夢見る自由。つまるところ信じられるデザインとは、ヒト・モノお互いのあやうさの上に成り立つ自由と緊張なのだと思う。 
だから「信じられるデザイン」とは「裏切られてもいいデザイン」「あやうさのデザイン」である。

「信じられる」のは「あやういモノ」であるからであるとの解釈、大変面白く思いました。他の方のほとんどがまさに「ふつうのモノ」「かんぜんなモノ」を取り上げられていたので、その対比が非常に印象的でした。

私はデザインの人ではないので偉そうなことは言えないですが、デザインとは未来を創るためのものだし、常に進化するし、完成などない。また、「信じる」という意思には使う人のモノ・コトへの能動的な関与があります(安心安全や定番はある意味で受動的です)。使う人も一体となったデザインとでも言うのでしょうか。そう考えると、濱口氏の言う「信じられるデザイン」はデザインの本質であるように思えます。

実験精神/未来志向の精神/リスク(あやうさ)に対峙する精神の大切さを改めて思い、刺激をいただきました。他にも色々な解釈がありましたので、一度見に行かれてはどうでしょうか。


2012年4月9日月曜日

プロセスの落とし穴 -プロセスはイノベーションを促すか、妨げるか-


私が気にしているからかも知れませんが、いろいろな記事で、デザイン、デザイン・シンキング、ユーザー中心のアプローチといった新しいイノベーションの方法論についての論稿をよく見かけるようになりました。当然ながら企業で新しい事業や仕掛けを検討している人たちもその重要性に気付き始めているのではないかと思います。

下記の記事では、企業は非常に整ったプロセスが好きであり、それなりのお金をかけてしっかりとしたプロセスを用意すれば、まるでトーストでパンが焼けるように6ヵ月後には業界のゲームを変えるイノベーションが生まれていると考えがちではないかという問題提起がされています。

The Seven Deadly Sins That Choke Out Innovation

こぎれいなプロセスを用意しそれに従いさえすればイノベーションは創造できるか。答えは、もちろん「No」です。私もよくやりがちなのですが、新しい考えややり方を学習する際に、どうしてもプロセスの理解や整理から入ってしまうところがあります。イノベーションを促すはずのプロセスが逆にイノベーションを妨げることさえあるとして、この記事では、IDEOのニューヨーク責任者Ryan Jacoby氏の講演より、こういったプロセスを重視しすぎた場合に陥りがちな7つの罠を紹介しています。まずは簡単に引用。
1: THINKING THE ANSWER IS IN HERE, RATHER THAN OUT THERE:答えは「あっち」ではなく「こっち」にあると考える
「我々は机とメールに囚われているが、ブラックベリーからはイノベーションは生まれてこない」と。オフィスを出て予期せぬ場所からのイノベーションにオープンになるべきであると言い、Jacoby氏は毎日の通勤路で写真を撮ることを課しているそう。 
2: TALKING ABOUT IT RATHER THAN BUILDING IT:「作る」よりも「協議する」
1に関連して、我々は会議・メモ・ディスカッションの世界に生きていて、これらは往々にして何か行動をすることを妨げると。作ってみること、そこから生まれる(洗練されていないかもしれない)プロトタイプはチームをモチベートしいつもと異なった思考を行うことを促すと言います。 
3: EXECUTING WHEN WE SHOULD BE EXPLORING:「探索」すべき時に「実行」する
これもその名の通りで、まだ探索をすべき早すぎる段階で、プロジェクトの方向性の確定を行ってしまうマネジメントが行われがちと言います。 
4: BEING SMART:スマートであろうとする
イノベーションとはまだこの世に見ない新しいアイデアであるため、誤りを恐れていてはイノベーションを導くことはできないという話。 
5: BEING IMPATIENT FOR THE WRONG THINGS:誤りを受け止められない
イノベーションは時間がかかるが、エグゼクティブは往々にして早すぎるタイミングで非現実的な成果を求めがちと言います。 
6: CONFUSING CROSS-FUNCTIONALITY WITH DIVERSE VIEWPOINTS:多様性を目的にしたクロスファンクショナルチームへの戸惑い
「多様性がイノベーションの鍵」と。ただそれは単純にいくつかの機能を寄せ集めるという通常企業が行うクロスファンクションとは異なるため、そこに戸惑いが生じやすいと言います。 
7: BELIEVING PROCESS WILL SAVE YOU:プロセスがあれば大丈夫と信じる
イノベーション戦略を簡単に買うことはできないし、例え何か目に見える製品を生み出すことができたとしてもそのプロセスが成功を保証するわけでもない。プロセスを学び、プロセスを実行し、そのプロセスの中で(イノベーションを)リードするしかないと言います。

なるほど、確かにありそうな罠です。教科書を用意したら逆に教科書通りに進まないといったような感じです。イノベーションのプロセスを用意したのに、それが逆にイノベーションを妨げていると。

では、なぜこのようなことが起こってしまうのでしょうか。私は下記のような要因があるのではないかと思います。
・これまでのやり方に同質化する
プロセスに落とし込もうとすると、結局これまでと同じような発想で、会議体を設定して、議論・合意して、実行して、振り返るために会議体を設定して・・・と既存のレールの上にパーツを置いてしまう。結果何も変わらないプロセスが出来上がってしまうというオチ。 
・表面だけなぞって「それやってる」感が生まれる
デザイン・シンキングと言うと響きは新しいですが、プロセスとして教科書的になり、要素だけをかいつまんで表面をなぞれば、これまで自分たちがやってきたことと対して変わらないじゃないかという話が出てきそうです。例えば、人間中心って現場主義・顧客主義と何が違うの?プロトタイプってやってるよ?みたいな。既存の何かに置き換えてしまうという現象。 
・プロセスに従うことが目的化する
未知な領域、取り組みだからこそプロセスに助けてもらう意義も大きいのですが、逆に言うと、よくわからないことに取り組んでいるので目の前にあるプロセスに固執しこれに従うことが目的化してしまうリスクあり。 
・プロセスが正しい=結果が伴う、という等式が前提になる
プロセスに従えば結果が伴うというある種の信頼感(甘え?)によって、そこに生まれる混沌や誤りを受け止められない、ということが起こりうる。誤りや失敗から学ぶことが重要なのですが。 
・他から学習すること、疑うことが止まる
本来、プロセスはマニュアルではないので、それをベースに実践をしながらも、他から学習し、疑い、改善や実践に適応した形にアレンジしていくもの。現実は、プロセスになっていないこと=悪・ルール違反、といった誤った認識が生まれがち。

他にもあるかもしれません。いずれも、ものごとの本質を理解せずに、また実践を通じた実感値として腹に落とさずに、一足飛びにプロセスに落とし込んだ(本質を理解しない人たちにプロセスに従わせた)瞬間に起こりうる現象かと思います。

これらは、組織にイノベーションを根付かせる際の壁についての議論のように見えますが、個人が身近なところで新しいことを発想したり実行に移したりする際にも当てはまること。プロセス思考の気のある自分に自戒の意味を込めて。このブログもそうならないようにしないと。。