2012年8月9日木曜日

変えないということ -深澤直人氏のコラムを読んで-


深澤直人というデザイナーをご存じでしょうか。
ここに経歴など)

という問いかけも変に聞こえるくらい有名な方なのでご存知の方も多いかと思いますが、氏はauの携帯「インフォバー」「±0」というブランド(加湿器は多分誰しも見たことある)が有名なデザイナーで、元IDEO日本法人代表(今はないが当時は日本にもあったらしい)でもあった方です。

この深澤直人氏が「d design travel」という47都道府県のトラベル情報が掲載された雑誌にコラムを連載されています。この雑誌をどこかで目にした時に、「変えないということ」という回の内容が印象的でメモっていたのを思い出しました。コラム全体ではありませんが、特に印象に残っている部分だけ下記に引用させてもらいます。
長く使われてきたものは、もう生活の分子になっているから簡単に変えようとしてはいけない。「保守的」といわれるかもしれないが、「保守」ということばには2つの意味がある。1つは、「正常な状態を保つこと」。もう1つは、「旧来の風習・伝統・考え方などを重んじて守っていこうとすること」。それはまさしく長い年月を経て「ふつう」になってきたことを「ふつう」のままにしておこうとすることだと思った。保守の反対は革新で、その意味は旧来の制度を改めて新しく変えることである。制度を改革するのであって、よいものを新しく作ることとは違う。変えるのではなく、しっくりいっていないことを正し、改善すること。デザインは「変える」こととか「新しく」作ることだと思い込んでいる人は少なくない。そういったデザインの一般論に反抗して「変えない」ということは易しくない。「自分のデザイン」というような気持ちを捨てなければならない。でもそうやっていいものを継承して現在の生活に合わせて少しずつ直していこうとすれば、いつか自然に新しいものがぼろっと生まれる時がある。新しいのに、ずっといいものと繋がっているいるようなものができる時がある。

散文的で少しわかりにくいところもある(ご本人のスタイル?)のですが、「変えない」デザインの大切さと難しさ(革新を否定しているわけではないが、何でもかんでもただ変えることが良しとされることへの警鐘)を述べられた内容なのかと理解しました。

身の回りで言うと、生活の分子になっているというと、例えば茶碗みたいなもののことでしょうか。確かに私も、ご飯を食べる器に対して特に新しい形状や独自性を求めていませんし、革新的な米のよそい方を欲しているわけでもありません。

食事に関する周辺を見てみると不思議なもので、人の食生活はライフスタイルとともに変化していますし、台所の機能もだいぶ昔と変わっていますし、器によそう食事そのものにもどんどん変化があります。そんな変化の中にあって、茶碗だけは長い間変わっていない(変化を求められない)という不思議。これが氏の言う「生活の分子」というものでしょうか。

これ、自身の仕事で扱っているビジネスやサービスに当てはめるとのどのようなことが言えるのか、一考に値すると思います。

  • 「変えるもの」と「変えないもの」をしっかりと峻別できているのか
  • 「変えること」だけを是としていないか
  • 「意図的に」そのままにしているものはあるか

「戦略とはやらないことを決めること」というのはあまりにも有名ですが、自分のビジネスで「変えないこと」についてもこのお盆にでも考えてみたいと思います。

2012年7月12日木曜日

シンプリシティ(Simplicity)とは -シンプリシティはシンプルに非ず-


最近、生活をなるべくシンプルにしたい(ありたい)と思っていたり(年齢のせい?)、仕事でも、例えばサービスの企画にあたっていかにシンプルな仕掛け・機能で本質的なニーズを満たせるか、ということを気にしていたりします。

シンプルにすること(であること)。デザインやサービスのインプリメンテーションにおいては、シンプリシティ(Simplicity)という言葉でよく言われているように思います。

シンプリシティ(Simplicity)を英英辞書で引くと、下記のような記述があります。
the quality of being simple and not complicated, especially when this is attractive or useful:
(Longman オンライン版より)
つまり、シンプリシティとは、単純にシンプルである(簡単、簡素である)ということだけではなく、前提として魅力的であり実用的であるということです。ここは忘れやすい。(TO:自分)

これをサービスに置き換えて考えてみると、サービスが魅力的であり実用的であるということは、ユーザーの抱える課題を解決しニーズを満たすものであることを意味すると考えられます。シンプリシティを実現することがそんなに簡単でないことがわかります。

下記は、アップルのデザイン責任者Jonathan Iveがシンプリシティに関して答えたインタビュー記事。
"Our goal is to try to bring a calm and simplicity to what are incredibly complex problems so that you're not aware really of the solution, you're not aware of how hard the problem was that was eventually solved." 
"Simplicity is not the absence of clutter, that's a consequence of simplicity. Simplicity is somehow essentially describing the purpose and place of an object and product. The absence of clutter is just a clutter-free product. That's not simple." 
"The quest for simplicity has to pervade every part of the process. It really is fundamental."
Jonathan Ive interview: simplicity isn't simple より

皆がソリューションに気付いていなかったり、解くのが非常に難しい複雑な問題にシンプリシティをもたらすことがゴールである。そして、乱雑さが排除されている状態はシンプリシティの結果であり、それ自体がシンプリシティが意味するものではない。というような趣旨かと。

また少し畑の違うところで、小説家の村上春樹はこのように言っています。

"My goal is to use simple words to tell complicated stories."
非常に簡単な言葉で、非常に複雑な物語を語りたいというのが、僕の目指していることだ。
Japan's Murakami says metaphor more real after 9/11 より


シンプリシティは決して簡単なことではない、むしろ解釈が非常に難しいテーマであると、意識すればするほどそのように思います。

シンプリシティ実現の前提には、目的(複雑なことを伝える、複雑な問題を解決する等)が存在します。これが必要条件。その上で、その問題を解決するための最善の手段(十分条件)としてシンプルであることが求められると理解できます。(よりわかりやすく伝わる、より課題が解決しやすい)

あるいは、複雑な問題そのものにメスを入れる、つまり、よりメタレベルの問題に昇華させるあるいは問題を絞り込む、ということも手段としてのシンプリシティなのかも知れません。

いずれにしても、シンプルであることが必要条件として独り歩きする状況って結構あるな、それは本来とは違うなと。シンプルにしたからと言って、So What?なものって意外と多いように感じます。

最後に、シンプリシティに並々ならぬ拘りを持っていたであろうスティーブ・ジョブズの言葉。ハーバードビジネスレビュー2012年8月号『イノベーション実践論』の記事から(原典は未記載)
ある問題に着目した時に、『シンプルきわまりない』と思ったとしよう。この場合、問題の複雑さを本当に理解しているとはいえない。単純すぎる解決策しか生まれないだろう。問題に深くかかわってみると、実はとても入り組んでいたのだと気づく。それから、手の込んだ解決策のあれこれを考え出すのだ。 
真に偉大な人物は、前進を続けるだろう。そして問題の根底にある本質を掘り起こし、美しくエレガントで、しかも効果的な解決策を考えだす。

シンプリシティ(Simplicity)はシンプルに非ず。

2012年7月4日水曜日

小説を書くこととサービスを立ち上げることの共通点 -『雑文集』(村上春樹)より雑感-


最近、通勤途中とか休日のお茶する時とかに、ちょこちょこと村上春樹の『雑文集』を読んでいます。これ『雑文集』という名の通り、著者がどこかに寄稿したエッセーとか、誰かの本に書いた後書きとか、何かの受賞記念講演とか、ちょっとした雑文が集められたものです。非常に短い文章の集まりなので、細切れな時間とかボーっと流し読みたい時とかにすごく良い。もともと村上春樹のエッセーが好みというのもある。(小説より好きかも)

で、その一つ目の雑文を読んでいて、ふとあることを思ったのでメモ。まずは、『雑文集』より、幾つか引用。
小説家とは何か、と質問されたとき、僕はだいたいいつもこう答えることにしている。「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間です」と。
なぜ小説家は多くを観察しなくてはならないのか?多くの正しい観察のないところに多くの正しい描写はありえないからだ(中略)それでは、なぜわずかしか判断を下さないのか?最終的な判断を下すのは常に読者であって、作者ではないからだ。小説家の役割は、下すべき判断をもっとも魅惑的なかたちにして読者にそっと手渡すことにある。
良き物語を作るために小説家がなすべきことは、ごく簡単に言ってしまえば、結論を用意することではなく、仮説をただ丹念に積み重ねていくことだ。
読者はその仮説の集積を自分の中にとりあえずインテイクし、自分のオーダーに従ってもう一度個人的にわかりやすいかたちに並べ替える。その作業はほとんどの場合、自動的に、ほぼ無意識のうちにおこなわれる。僕が言う「判断」とは、つまりその個人的な並べ替え作業のことだ。
仮説の行方を決めるのは読者であり、作者ではない。物語とは風なのだ。揺らされるものがあって、初めて風は目に見えるものになる。

どうでしょうか。

この文章を読んで私が思ったことは、「良い作品を書く小説家と良いサービスを出す者、良い小説と良いサービスには、共通点があるのではないか」ということ。これはサービスだけではなく、製品にも言えることかも知れません。

もしかしたら、このブログでも取り上げている「人間中心のデザイン」(参考記事:人間中心のデザインの原則 -『誰のためのデザイン?』を読んで-)とか「アジャイル」(参考記事:ビジネスにもアジャイルという方法を -誤りや変化を歓迎する方法論-)とか、その辺のキーワードが頭にあるからかも知れません。

観察を重視し、ユーザーと一緒に作る感覚。ビジネスにおいて判断は流石にするんだけども、仮説の積み重ねでローンチし、ユーザーも巻き込んで判断・検証をしていく、つまりローンチがゴールではなく、そこがスタートである点。決して何も考えていないわけでも、ユーザーにおもねっているわけでもなく、そこには確固たる伝えたいメッセージや提供したい価値はある。なんだかすごく共通点がある気がします。

雑感ながら。


やれやれ。

2012年6月22日金曜日

目先・小手先の問題解決にフォーカスしていないか -『Good Product Manager, Bad Product Manager』より-

良い記事を読んだのでご紹介。

ネットスケープ・コミュニケーションズ社の元幹部で、アンドリーセン・ホロウィッツというGroupon/Facebook/Twitter/Foursquareといった名だたるテック企業に投資するVCの共同創業者であるBen Horowitz氏が、かつて(ネットスケープ時代?)書いた『Good Product Manager, Bad Product Manager』という記事。1996年のもののようだけど普遍的な内容のため一読の価値あり。

原文(英語/PDF)はこちらから。


以下、幾つか抜粋(日本語は意訳)。他にも色々なGood/Badの対比が原文にはあります。

・イケてるプロダクトマネジャー(以下、PM)は「What」をくっきり描き出す、ダメなPMは「How」に心頭する
Good product managers crisply define the target, the “what” (as opposed to the “how”) and manage the delivery of the “what”.
Bad product managers feel best about themselves when they figure out “how”.

・イケてるPMはインフォーマルに指示は出さないが、逆に情報収集はインフォーマルに行う
Good product managers don't give direction informally. Good product managers gather information informally.

・イケてるPMはレバレッジをかけられる作業をし、ダメなPMは一日中問い合わせ対応に追われる
Good product managers create collateral, FAQs, presentations, and white papers that can be leveraged.
Bad product managers complain that they spend all day answering questions for the sales force and are swamped. 

・イケてるPMは収益と顧客に、ダメなPMは競合が何をやっているかにチームをフォーカスさせる
Good product managers focus the team on revenue and customers.
Bad product managers focus team on how many features Microsoft is building.

・イケてるPMは問題を分解するが、ダメなPMは問題を一つにまとめる
Good product managers decompose problems.
Bad product managers combine all problems into one.


全般通じて、タイトルにも書いたように、忙しさにかまけて目先の(あるいは小手先の)問題解決にとらわれていないかというチェックリストになりそう。雑務がたまりにたまって肝心なことができない、火消しに追われているということは、何かが根本の部分で間違っている可能性がある。そんな時こそ、目的やゴールに改めて立ち返り、自身が近視眼的になっていないか、大局に立ってものごとを見ることができているか、自問自答する必要がありますね。

急がば回れ。日々の業務に埋もれそうになった時に立ち返る一つの材料として。

2012年6月19日火曜日

制約はイノベーションの母 -名詞ではなく、動詞で考える-


何か画期的なアイデアを出しましょう、これまでにない発想で考えましょう、といった場合に、よくやるのがまずはゼロベースで様々な規制・慣習やリソース(ヒト・カネ)の前提を「取っ払って」議論してみるというやり方です。確かに、本当にその前提は崩せないのか疑ってみる、発想が行き詰った時に一旦大きく考えを振ってみる、といったケースには非常に役立つやり方であると思います。

ただそれと実現性を無視することとは大きく異なります。実際の世界には制約が満ち溢れています。お金がない、時間がない、技術がない、資源がない、などなど。これは無視しようにも無視できません。(一定の工夫はできるでしょうが)

では、この「前提を取っ払って考える」ということの本質は何なのか。

■実際の世界は制約だらけ
実際の世界には制約が満ち溢れている、この代表例がBOP(ボトム・オブ・ピラミッド)の世界かと思います。このBOP市場にイノベーションが生まれえないのかというと、そんなことはありません。一昨年亡くなったC.K. プラハラード教授の著書『ネクスト・マーケット 「貧困層」を「顧客」に変える次世代ビジネス戦略』で、一躍BOP市場やそこでのイノベーションに注目が集まりましたが、制約をうまく活用(回避?)したアイデアや、場合によってはその制約があったからこそ先進国では発想できなかったようなイノベーションが生まれています。

このBOP市場における制約を超えるイノベーションの事例は下記の書籍に詳しかったです。ビジュアルも多くて読みやすい。

『なぜデザインが必要なのか――世界を変えるイノベーションの最前線』

『世界を変えるデザイン――ものづくりには夢がある』

一つ目の書籍に掲載されている事例はほぼこちらのサイト(英語)に網羅されているのでご参照ください。

■制約はイノベーションの母
ここで重要なのは、「制約があるからイノベーションが生まれる」のではなく、「制約があるからイノベーションを生む必要がある」という点ではないかと思います。つまり、待っていれば勝手にイノベーションが生まれるのではなく、制約を受け止めそこからプロアクティブにイノベーションを起こそうとしてこそイノベーションは生まれる、ということです。まあ当然のことではあるのですが。

この制約をうまくイノベーションに活かすという考え方、デザイン思考という文脈ですが、IDEOのCEOティム・ブラウンの著書『デザイン思考が世界を変える―イノベーションを導く新しい考え方』でも言及されています。
相反するさまざまな制約を喜んで(特に熱烈に)受け入れることこそ、デザイン思考の基本といえる。多くの場合、重要な制約を見分け、その評価の枠組みを制定するのが、デザインプロセスの最初の段階だ。制約は、成功するアイデアの三つの条件と照らし合わせると理解しやすい。それは、「技術的実現性」(現在またはそう遠くない将来、技術的に実現できるかどうか)、「経済的実現性」(持続可能なビジネス・モデルの一部になるかどうか)、「有用性」(人々にとって合理的で役立つかどうか)の三つだ。

■制約がある中でイノベーションを生むためには
ここで冒頭に言及した、「前提を取っ払って考える」ということの本質、に戻るのですが、制約の中から生み出すイノベーションにおいて非常に重要になることは、「視座を広げる」ということであると思います。これが「前提を取っ払って考える」ということの本質ではないかと。

「視座を広げる」という意味を理解するためには、『デザイン思考の道具箱―イノベーションを生む会社のつくり方』という書籍に紹介されていた下記の記述が良いヒントになると思います。
当時からIDEOは「名詞ではなく、動詞で考える」デザインを主張していた。モノそれ自体をデザインするのではなく、行動をデザインするという考え方だ。

「名詞ではなく、動詞で考える」とは、例えば、「冷蔵庫」ではなく「貯蔵する」で考えるということであると理解しています。モノそのものをどうするかではなく、そもそもの目的に立ち返って広い視座で問題そのものを考える。例えば、電気の通っていない(あるいは落ちがち)な地域に、ただ超低コストの冷蔵庫を持っていったところで成功するでしょうか。そこには冷蔵庫に代替する何かしらの貯蔵するもの(場合によってはコト、方法かも)が必要になるはずです。

書き終わって気付いたのですが、なんか書籍の紹介エントリみたいになってしまった。。制約が目の前にあった時、「前提を取っ払って考える」ということの本質を見失わない思考が必要だなー、ということでのエントリーでした。

2012年6月7日木曜日

エントロピーとイノベーション -『エコロジー的思考のすすめ―思考の技術』(立花隆)より雑感-


「エントロピー」という言葉をご存じでしょうか。本来は熱力学における用語ですが、平たく言うと(というか平たくしか理解していない、高校大学で習ったはずなんだけど。。)、「無秩序さの度合い」です。詳しくはこちら

先日、立花隆の処女作『エコロジー的思考のすすめ―思考の技術』を読み、この言葉に出会いました。若干脱線すると、本書は超良書。タイトルから想像されるようなHOWTOな内容では全くなく、生態学的ものの見方を組織や経済へも敷衍して論じる内容。初版1971年ですが、全く古くありませんし、当時30歳という立花隆の知の巨人ぶりに我が身を振り返らざるを得ません。

さて、今回はこの「エントロピー(無秩序さの度合い)」についての雑感。

このエントロピーには「エントロピー増大の法則」というものがあるそうです。自然にしかり、生活に当てはめてもしかり、放置しておくとものごとのエントロピーは増大していく(無秩序さが増す)という法則です。身の回りを見てみればわかるように、コーヒーにミルクを入れれば次第にコーヒー中に溶け出していきますし、水は放っておけば蒸発して水蒸気として霧散し、部屋は放っておくと汚く散らかります。

生物に当てはめると、人間が最もエントロピーが低い生物だそうです。また高度な情報ほどエントロピーが低い、つまり人間の文明史は情報のエントロピー減少の歴史であると言います。人間、あるいは人間社会の発展は、統制・管理・集積の歴史、とでも言えるのでしょうか。

では、エントロピーは低ければ低いほどいいのか、社会やものごとは秩序立っていれば秩序立っているほどいいのか。エントロピーが低いということの負の側面として、「適応力がない」「変化に弱い」という点が挙げられるそうです。温室育ちの人間がある日突然体育会系の営業会社に放り込まれた時のことを想像してみてください。

そう考えると、一概にエントロピーを減少させる方向にだけ進む進化を全面的に良しとして良いのか、という疑問が湧いてきます。方向性の決まっている、あるいは今あるものをより良くしていく、高度化していくという中では、エントロピーを減少させる方向での進化が重要。一方、何かドラスティックな変化を生む、ダイナミックな進化を求める、といった場合にはエントロピーを”意図的に”増大させることにも意味がありそうです。このエントリで紹介しましたが、IDEOのティム・ブラウンもデザイン思考の一つのポイントとして、divergence(発散)とconvergence(収束)を行ったり来たりすることの重要性を説いています。

さて、ここで問題なのは、エントロピーを意図的に増大させたい時に、「放って」おけばいいのか、ということ。興味深いのは、組織(あるいは社会・人)は往々にして、放っておくとエントロピーを増大させて無秩序になるどころか、逆に保守化、現状維持の方向にベクトルが向き、エントロピーが減少する(凝り固まる)方向に向かうという点です。まあ「放っておく」の意味合い次第なのですが。

やはりイノベーションを生むためには、”意図的に”無秩序・発散を生む仕掛けをしないといけないのではないか、ということが今回の学び。ただの雑感で全くまとまりがないのですが。

2012年5月30日水曜日

ブレストのルール「Yes, AND」の功罪 -「No, BECAUSE」の効用-


アイデアを出すための一つの方法論としてブレーンストーミング(以下、ブレスト)は非常に一般的な手法です。以前は「さ、ブレストしましょう」と言いながら、それただの意見交換あるいは発言力のある人の独演会じゃないの的なことはよくありましたが、最近のデザインシンキングの流行のおかげなのか、このあたりの方法論の言語化が進んでいるからなのか、ブレストのルールと言われているものが広く知られてきているように感じます。

特に、少し前のNHK「スタンフォード白熱教室」(ティナ・シーリグ教授のやつ)の影響もあってか、「Yes, AND」でアイデアを否定せず肯定して重ねていくということが、ブレストのルールの一つとして定着しているような印象を持ちます。

■「Yes, AND」の功罪
これ実践してみてどうでしょうか。個人的には、制約や立場を取っ払って、とにかくアイデアを出しまくるという意味では一定の結果が期待できるルールだとは思います。一方で、そこで出てくるアウトプットが玉石混交だったり(特に程度の低いものが多い)、あまりにフワッとしすぎた内容だったり、ということが大抵の場合起こってしまうように思います。

このマイナスの現象の大きな要因の一つが、タイトルにも書いた「Yes, AND」の罪の側面だと思います。やってみるとわかるのですが、「Yes, AND」で意見を重ねていくと、確かに場のポジティブな空気感の醸成やテーマがハマった時のアイデアラッシュには一定の効果があるものの、上記のような残念なアウトプットに陥るケースがあるわけです。「楽しくアイデアをいっぱい出しましょう」には向くのですが、「ガチンコのやつ」には向かないというか。

■「No, BECAUSE」というアイデア
それはなぜなのか。そのなぜを考えるために、「Yes, AND」に加えて、「No, BECAUSE」をブレストに持ち込むというアイデアを紹介します。下記の記事を読んでなるほどなと思った視点です。なお、前提として、「No, BECAUSE」か「Yes, AND」かという二元論ではなく、「No, BECAUSE」「も」あっていいのではという話です。

Innovation Is About Arguing, Not Brainstorming. Here’s How To Argue Productively

下記に「No, BECAUSE」の効用を書き出してみます(全然MECEじゃないけど。。)。これがなぜ「Yes, AND」だけだとフワッとしたアウトプットになるのか、という裏返しかと思います。なお、下記は元記事に関係のない私個人的な考えですのでご留意ください。

・アイデアの「Why」を詰める
「なぜそのアイデアなのか」、論理や構造の世界にいったん引き戻す効果が考えられます。そして、またアイデアを発想する世界に振り直すという行き来を意図的に繰り返す。この作業がブレストには重要であると思います。
この記事の中にこの論理と発想を行き来する効用をイノベーションに関する論文の抄訳の形でまとめています。

・ストーリーを強固にする
一つ目に近いのですが、「Why」を考えることでアイデアによりストーリー性や具体感を伴わせた議論が可能になります。このWhyを考える作業は、ひいては「So what」を具体的にしていく際にも非常に重要な前作業になるように思います。

・クオリティスタンダードを上げる
まずは量を求めるというのがブレストの鉄則のようなところがありますが、同時に質を高められることができればそれに越したことはありません。量を出すことは目指しつつ、「No, BECAUSE」を使うことで、もうちょっと考えようよ的なものや、普通に(論理的に)考えればそれはないよねといったものをスクリーニングしていくことができます。

・ちゃんと考える(発言に責任を持つ)
「No, BECAUSE」という反応が来うるとなると、人はちゃんと考えます。念のためですが、発言に責任を持つというのは、放言をなくすという意味合いであり、議論の鉄則である「誰が言ったかではなく、何を言ったか」を否定するものではありません。同様にNoと言う人にもその論拠が求められます。

・Noと言われた人のアイデアが深まる
人はNoと言われて初めて「じゃあ、こうしたらどうか」といった対案やアイデアの積み上げができる場合もあります。対立ではなく深めるためにNoというマインドセットです。

■「No, BECAUSE」の弊害はあるのか
恐らく出てくる反対意見としては、それではブレストの目的である参加者全員が忌憚なくアイデアを出すことができて、量を追求できるという点が損なわれるのではないかという意見が想定されます。
Noということは、発言を力づくで抑えたり、多様性を認めないということではありません。ただ威圧的にあるいはパワープレイでNoを突きつけるわけではなく、そこに合理的な理由があることが条件です。Noを「否定」「対立」ではなく、「深める」手段として捉えるという発想です。

また、これまでの延長線上にないアイデアを出すという自由な発想ができなくなるのでは、という意見も出てきそうです。ただこれもおかしな話で、これまでの延長線上にないアイデアであることと、論理的に説明できないということは同義ではなく、むしろそのアイデアを「No, BECAUSE」でプッシュバックされないレベルに昇華させることができる効用の方が大きいかと思います。

■蛇足ですが
ちなみに、ということで、マッキンゼーのブレストについての論文にも参考になる点が多いのでリンク貼っておきます。一つ一つの論点は上記の内容とは直接関係しませんが、こちらも単に「クリエイティブな議論を!」「悪いアイデアなんてない!」といった安易な掛け声に警笛をならしています。特にそのような記載はないので憶測ですが、「Obligation to dissent(反論する義務)」を求めるマッキンゼーでも「No, BECAUSE」は求められるのではないかと思ったり。ご参考まで。

他にもいくつかブレストがフワッとしたアイデア大会に終わらないためのポイントってある気がしています。またこれだというのがあればご紹介できれば。

2012年5月27日日曜日

アイデア創出の処方箋「バイアス崩し」 -Ziba濱口秀司氏プレゼン@TEDxPortland-


「アイデアを生み出すための始めの一歩は何か?」
「(アイデアを生み出すためには)アイデアにフォーカスしてはいけない」

んんっ?っていう感じの人も多いはず。今回紹介するTED動画のひとコマ。動画は前者の問題提起で始まり、後者の注意で終わります。

スピーカーはこれらのエントリ(その①その②)でも取り上げさせてもらった、デザインコンサルティング会社Zibaの戦略担当ディレクター濱口秀司氏。TEDxPortlandでのプレゼンテーション。先日濱口氏が講演された東大i.schoolのイベントに参加してこのお話しのもう少し長く中身深い版を聞いたので、おさらいに持ってこいの内容。もちろん、この動画だけ見ても幾つもアイデア創出のヒントが転がっている濱口エッセンス濃縮版といった感じです。



■「0」(ド新規)からではなく「1」(バイアス)から始める
動画を見ていただければわかると思いますが、冒頭の「アイデアを生み出すための始めの一歩は何か?」に対する答えは、「バイアスを見つけそれを崩すこと」だと言われています。「0」から「1」を生む作業(ド新規のアイデア)にフォーカスするのではなく、「1」(バイアス)を見つけ崩すことにフォーカスせよという教えです。「1」というのは、人の認知バイアスであり、方法論としてのアイデア創出を考えるのであればこのバイアスの発見、崩しにフォーカスすべきと。

濱口氏はいくつかのチームに議論をさせた時に注目するのは、そこから出てくるアイデアではなくそれぞれのチームの思考パターン(バイアス)であると言われています。始めて聞いた時に、この目の付けどころは新鮮でハッとしたことを覚えています。バイアスを見つけるには、人の思考パターンの偏り、慣習、業界の常識といったところをいかに見つけ出すかが鍵になりそうです。

実はこの濱口氏はUSBメモリを開発した方(あとはサイボウズのようなイントラネットとか)なのですが、その誕生のきっかけもこのバイアス崩しであるということです。それを表現するのがこのチャート。

※「TEDxPortland - Hideshi Hamaguchi」より引用(5:09頃)

データのストレージ・移動について、データ量を横軸、データ移動の経験(タンジブル、インタンジブル ※目に見えるか、見えないか)を縦軸とした時に、業界が白色の矢印で進む(データ量も膨大になり、ネットワークを通じてデータがインタンジブルにやり取りされる)であろうというコンセンサスを持っていたのに対して、それをバイアスと捉え、タンジブル×データ量大の方向(赤色の矢印)にアイデアを持っていったというエピソードです。これがUSBメモリです。

■バイアスに着目する際に気をつけること(私見)
これは動画で言及されていることではないので私見ですが、注意しなければいけないのは、このバイアス崩しは、空白スペース(ニッチ)を見つける、単純に逆張りする、という類のものではないということです。要は何かの2軸をとって、今世の中に製品やサービスがないある象限で何かをやればそれがバイアス崩しだとする落とし穴です。

濱口氏がよくおっしゃるのが「Shiftを生むもの」です。つまり、バイアス崩しとは、現状にバイアスがあったとしてその横っちょで空白スペースをつまみ食いするという発想ではなく、新しいパラダイムにシフトするイノベーションです。ちなみに、濱口氏は「Shiftを生むもの」の基準として、そのアイデアがNewなのか、Doableなのか、Controversialなのか、という3点でも見てみるのが良いとおっしゃっています。最後のControversial(物議を醸す)というのがユニークですね。

■あとは自転車に乗る時のようにやってみること
上記は机上の理論ではなく、アイデアを生み出すための実践的なツールであると思います。ツールは使わないと意味がありません。

以前の講演で濱口さんがおっしゃっていたことに、自転車に乗れるようになる時のメタファーがあります。子供のころ、自転車に乗るために何か教科書を読んで頭で理解して自転車にまたがったら乗れた、という経験をした人はまずいないのではないかと思います。行きたい方向見る、スピードを出して漕ぎ出す、何回かこける。これで乗れるようになるわけです。Just do itだと。

動画では、じゃあどうすればこのバイアスを見つけられるかについても言及されています。すぐにでも実践できるエッセンスが多いですよ。是非動画をご覧ください。

1st step of idea creation is...
First, Break the Bias.
Do not focus on idea.

2012年5月10日木曜日

デザイン・シンキングは実践あるのみ -d.schoolのバーチャル講座を体験してみた-


スタンフォード大学のプログラムにd.schoolというものがあります。ビジネスの世界でデザインの重要性に注目が集まっていますが、このd.schoolはデザインコンサルティングファームIDEOの創業者デヴィッド・ケリー氏が創設したプログラムで、デザイン・シンキングを学び実践する場として、スタンフォード大学の中でも非常に人気のプログラムの一つだそうです。欧米では最近ビジネスのスキルアップ・キャリアアップのステップとしてMBAではなくこういったデザイン系のプログラムに参加する人も多いそう。有名企業への就職例も増えてきているそうです。(結果、どういう成果をあげているのかは知らないのだけど)

ちなみに、幾つかエントリー(その①その②)している東大i.schoolはこのd.schoolをベンチマークの一つにしているのだと思います。

さて、ホームページを見ていると色々なプログラムを展開している様子で、デザイン・シンキングに興味を持つ者としては、どれも一度は受けてみたいものばかり。でも遠すぎ。。留学するにしてもお金かかりすぎ。。

そんな方々に朗報!d.schoolがWeb上でバーチャルにプログラムを体験できる新しい取り組みを試験的に展開しています。プログラムの動画が公開されており、世界のどこにいてもネットさえ繋がっていれば、d.schoolのエッセンスを体感することができるようになりました。講義型の授業のネット配信は進んできていますが、このような体験・参加型のプログラムまでネットで世界中の人に受けられるようにするというチャレンジは、さすがd.schoolといった感じです。

バーチャルプログラムはこちらより

動画は約90分で、d.schoolで行われた一つのプログラム(公開講座っぽい)の動画が収録されており、動画の中で講師が説明するインストラクションに従って、動画の中の参加者たちと一緒に実際のプログラムをやってみるというものです。ペアになって行う作業が中心になるので、2名以上で参加する必要があり、Webからダウンロードしたマテリアルを手元に置き、それを使いながらの作業となります。

テーマは“redesign the gift-giving experience”となっており、誰かにギフトを送る経験をリデザインするという内容です。

ものは試しとばかりに、この方面で話の合う知人とやってみました。一連のデザインシンキングのプロセス(Empathize⇒Define⇒Ideate⇒Prototype⇒Test)を体感できるようになっており、その中でとんでもないアウトプットが出るまでには至らないとは思いますが、限られた時間(動画は90分くらいが限界?)の中で、最大限デザイン・シンキングのエッセンスを学び、実際の仕事などで活用できるように設計されているように感じました。

振り返りのメモとして一連のステップを簡単に書き出しておきます。日本語部分は全て私の勝手な要約です。
※ここにインストラクションが、ここにワークシートがあります

Start by gaining empathy.>>共感から始める

1. Interview @8min (2 sessions x 4 minutes each)
パートナーのギフトを送る経験をリデザインすることがゴール。まずは、パートナーが最近いつ誰にどんな感じでギフトをあげたのか・・・といった、Yes/No質問ではなくオープンな質問を通じてパートナーの経験に共感することから始める。

2. Dig deeper @8min (2 sessions x 4 minutes each)
1で聞いたことの深堀り。ギフトを送る経験に背景にあるストーリーや感性、感情といったものを深堀りする。とにかく「Why」を深堀りまくることで、ギフトを送る経験の背後にあるパートナーの大事にしていることを探る。

Reframe the problem. >>問題をリフレームする(捉えなおす)

3. Capture findings @3min
needs: things they are trying to do*
*use verbs
ここからは、問題の咀嚼。1.2でインタビューした内容を捉えなおす。まずは「ニーズ」。パートナーがなぜ語られたようなギフト経験をしたのか、その背景にあるパートナーのニーズを書き出す。ポイントは、「Aさんがギフトを送ったのは、XXXXしようとして」といったように動詞で書いてみること。これにより具体的になる。

insights: new learnings about your partner’s feelings/
worldview to leverage in your design*
*make inferences from what you heard
1.2でインタビューで見えた「インサイト」を書き出す。ソリューションを後ほど創出する際にレバレッジできそうな発見を見出す。

4. Define problem statement @3min
______________(partner name/description) needs a way to ______________(user's need) Surprisingly//because//but ______________(insight)
上記の”__________”の部分を埋めてみることで、パートナーのギフト経験における問題(背景にあるニーズや特筆すべきこと)を構造化してみる。

Ideate: generate alternatives to test.>>アイデア出し:代替案をテストする

5. Sketch at least 5 radical ways to meet your user’s needs. @4min
ここからはアイデア出し。パートナーのニーズを満たすための新しくて過激なギフト経験のアイデアを最低5つ書き出してみる。ここはまだアイデア評価の段階ではないので、ラフでもなんでもいいので取りあえず数を出してみる。

6. Share your solutions & capture feedback. @8min (2 sessions x 4 minutes each)
5で考えたアイデアをパートナーに共有してみて、フィードバックをもらう。ここで気をつけるのは1にあった「共感」。フィードバックを通じてパートナーの持つ感情や動機を改めて探る。

Iterate based on feedback.>>フィードバックに基づき改善する

7. Reflect & generate a new solution. @3min
Sketch your big idea, note details if necessary!
これまでのステップで積み重ねたパートナーへの理解・共感と自身のアイデアを踏まえ、改めてギフト経験のソリューションを組み立て直す。

Build and test.>>プロトタイプを作り、テストする

8. Build your solution. @10min
Make something your partner can interact with!
ここからは紙の上ではなく、実際に色々なマテリアルを使ってプロトタイプを作ってみる。ギフトがモノであればそのモノを、目に見えない経験のようなものであればそれをイメージできるような造形を作ってみる。

9. Share your solution and get feedback. @8min (2 sessions x 4 minutes each)
What worked.../What could be improved.../Questions.../Ideas...
8で作ったプロトタイプをパートナーに共有し、フィードバックを得る。触ったり使ってみたりしてもらい、どうそれを使うのか(またどう間違って使うか)、どんな感想を持つのか、何かよくわかってないようならそれは何か、プロタイプに対するフィードバックを探る。


いかがでしょうか。体験してみたくなりましたでしょうか。

デザイン・シンキングのようなものは、書籍などを通じて学べることはあるものの、最後は実践して体験することでしか体得できないものであると思います。ただ、一方で方法論もまだそこまで一般化しておらず、仲間を募ってやってみようにも正直口でやり方を伝えるのは一苦労。そういう意味で、デザイン・シンキングの実践へのハードルを低くするこの取り組みは非常に意義のあることだと思います。

とは言いながら、こういったことをやろうと言って共感してもらえる人が周りにいるかは結構微妙かも。最初は、何かのワークショップやチームビルディングのような場で、アイスブレーク的な取り組みとして取り入れて見るのも一つの手ですかね。これを一つのきっかけにますます広がるといいですね、デザイン・シンキング。

2012年4月19日木曜日

デザインが直面している変化 -i.school春のシンポジウム「融合するデザイン」に参加して-


少し時間が経ってしまいましたが、先日、東京大学のイノベーション教育のプログラムであるi.schoolのシンポジウム「融合するデザイン」に参加してきました。シンポジウムは、LG Electronicsデザインセンター長のKun-Pyo Lee氏の基調講演と、ナレッジマネジメントの第一人者である紺野登教授ら複数名の識者のパネルディスカッションが中心の構成でした。

全体を通して、特にLee氏の講演が興味深かったです。最近LGをはじめとした韓国企業は、ブランド力で欧米では上位常連になっていたり、デザイン・技術の面でもリーディングカンパニーになりつつありますが(なってる?)、そのデザイン戦略・思想の一端を垣間見ることができました。ちなみに、LGと言えば、最近この「曲がる電子ペーパーディスプレイ」が話題になりましたね。

氏の講演の中で私が特に興味深いと思った点は、元来デザインを生業にする人たちの中にあるデザインの定義や役割の変化に対する問題意識の存在です。ビジネスにおけるデザインやデザイン・シンキングの重要性がホットになってきていて、職業的デザイナーではない人たちのデザインに対する関心・理解は広がってきている一方で、このような危機感が生まれているということは新鮮でした。

具体的には、「What?(何をデザインするのか)」「by Whom/for Whom?(誰が誰のためにデザインするのか)」という2点についての問題意識が強いという印象を受けました。
(Lee氏が直接的にWhatとWhomに問題意識があるとおっしゃっていた訳ではないので、念のため)

・何をデザインするのか(What)
一言で言うと、従来型のプロダクトデザインの領域におけるデザインの余地が減ってきているという問題意識です。Lee氏は"form is disappearing"という表現を使われていました。

冗談交じりに言われていたのが、「スマートフォンのデザインの余地は背面にしかなくなってきている」というもの。確かに「スマートフォン」で画像検索するとどれも似たようなフェイスですし、薄くなっているので側面にもデザインの余地はなく、UX(ユーザー・エクスペリエンス)もアンドロイド等のOSの制約を大きく受けるため自由度はそこまで高くないということです。

また、テレビも自立型から壁掛けになりデザインできる部分が少なくなり、さらに超薄化が進むと、究極は壁に引っ掛ける電子ペーパーのようになってしまうのではないかと。このCMは現在のテレビを象徴していますね。

Thief Cleverly Steals a Thin LG Television

・誰が誰のためにデザインするのか(by Whom/for Whom)
こちらは"users are getting bigger"という表現を使われていましたが、デザインする人とされる人の役割や関係がどんどん変化してきているというお話でした。ユーザー(もはや単なるユーザーとも言えない)の声が大きくなってきていて、デザイナーが推し出すデザインで簡単に満足して従うような状況ではなくなってきたと言います。

デザインする人とされる人の関係性や役割は、時系列で下記のような変遷を遂げているとLee氏は表現されていました。(左がサプライサイド、右がデマンドサイド)

・1950年代以前
craftsmen(職人)-neighbors(隣人)
職人がよく見知った隣人にテーラーメードしていた時代
・1950年代~1970年代
expert stylist(エキスパート・スタイリスト)-consumer(消費者)
その道のエキスパートが「これだっ」と提示したものを消費していた時代
・1980年代~1990年代
observer(観察者)-user(ユーザー)
実際にモノを使う人をしっかりと観察し、そのニーズに見合ったものを提供していた時代
・2000年代以降
facilitator(ファシリテーター)-participants(参加者)
モノを使う人がそのデザインプロセスにも参加し自分のほしいモノに関与する時代

一方的にサプライサイドから出ていた左から右の矢印(→)が、デマンドサイドのニーズを吸い上げる矢印(←)になり、さらには参加型ということで相互的な矢印(⇔)になってきています。デザインへの発言力というパワーバランスの意味でも、実際にアイデアを出す役割という貢献度の意味でも、デザインが「誰によって」「誰のために」されるのかという2つの「誰」の主体が両者とも徐々にデマンドサイドに移っていることがわかります。極端に言うと、使う人が自分が使うためにデザインする、というような世界でしょうか。

・これからのデザインは(What/Whom)
では、「これから」はどうなるのか(なるべきか)。デザイナーは何をする人になっていくのか。

まず、WhatについてLee氏は、LGの一つの戦略として「融合(convergence)」を掲げておられました。Whatの一つの選択肢として、iPhoneのようにまったく新たなデバイスやインターフェースを創造するという選択肢もありますが、事業コングロマリットのLGとしては色々なデバイスやメディアを通じてユーザーの持つ情報や生活シーンをシームレスにつなぎ、より快適な生活をプロデュースするという点をコアとしていきたいというお話でした。
(ここは正直どこのメーカーも言っているような話なので、あれ急に普通な話になった??な感じでしたが。。)

また、Whomについては、これからのデザイナーは「frameworker(フレームワーカー)」であるとおっしゃっていました。キーワードは、「Crowd」「Collective」「Open」。Wikipediaやオープンソース(Linux等)、アイデアコンテストのように、ユーザー群の知恵を汲み上げる枠組みをデザインできる人が、これからのデザイナーだという話です。

少し話がそれますが、IDEOのCEOティム・ブラウン氏が最近の講演動画で、同様の趣旨のことが話されていました。ユーザーとの関係が「for」から「with」そして「by」になってきているという話です。「OpenIDEO」というユーザー主導のイノベーションプログラムもこの流れですね。また、Paul Saffoという人の言葉として、19世紀は「the industrial economy」、20世紀は「the consumer economy」、そして21世紀は「the creator economy」という言葉も紹介されていました。これは職業としてのクリエイターの時代ということではなく、万人がクリエイターであるという意味合いです。

この動画、もしよければ下記よりどうぞ。40分弱と少し長め。

Tim Brown presentation

・デザインはなぜ変化に直面しているのか
ここは講演で言われていたことではありませんが、なぜ今デザインにおけるWhatとWhomが変化に直面しているのかを考えてみると、逆説的ですが、デザインへの理解が広がってきているということが背景にあるように思います。つまり、「Why?(なぜデザインなのか)」「How?(デザインとはどのようなものか)」についての理解の広がりです。

WhyとHowについての理解が広がると、なぜWhatとWhomが変化に直面するのか。単純化して言うと、下記のような構造だと思います。

・WhyがWhatの変化をもたらす
デザインの意味や重要性が理解されると、デザインにはより本質的な役割(問題解決)が求められるようになります。表面的あるいはギミック的なデザインは淘汰され、何をデザインすべきなのかが本質的な問題として浮上してくるように思います。

・HowがWhomの変化をもたらす
デザインの方法論がより一般的になると、技術としてのデザインがいわゆるコモディティ化し、デザインを担う(あるいは理解する)人の幅が広がるように思います。

上流のWhyと下流のHowが、中間のWhatとWhomをサンドイッチしているような感じ。デザインの意義が理解され、より一般的になるにつれ、デザインの再定義の流れが加速するということは非常に面白い現象だと思います。デザイナーあるいはデザインがこれまでの役割やスコープに留まると恐らくデザインはコモディティ化してくるでしょうし、一方で、デザインが新しいステージに進む一つの機会・転機でもあるかと思います。

最後にLee氏が引用されていた進化論のダーウィンが言ったとされる有名な言葉を。(ダーウィンが言った訳ではないという説もあるらしいですが。。)
”It is not the strongest of the species that survives, nor the most intelligent, but the one most responsive to change.”
「この世に生き残るものは、最も力の強いものでも、最も頭のいいものでもなく、変化に対応できる生き物だ」

2012年4月15日日曜日

未来のためのデザイン -「信じられるデザイン」展を鑑賞して-




昨日、ミッドタウンで開催されている「信じられるデザイン」展に行ってきました。
「信じられるデザインとはどのようなものでしょうか?
  そのデザインはなぜ信用できるのでしょうか?」
この問いに対して、デザインに関わりのある51名のクリエイターが、それぞれの解釈をメッセージとして寄せ、合わせて「信じられるデザイン」であるモノ・コトを一つピックアップして紹介するという内容。

多くのクリエイターの方が、「信じられるデザイン」として、「安心安全なもの」「愛着のあるもの」「定番なもの」「堅牢なもの」を挙げられていました(私の印象です)。例えば、日本の新幹線のシステム、日本メーカーのウォシュレットトイレ・体温計、昔から使っている茶碗、といったものです。たまたまでしょうが、(確か新幹線など)1つのものを2人以上がピックアップしていたケースもありました。

そんな中で、興味深い解釈をされていたのが、デザイン・コンサルティング会社Zibaのディレクター濱口氏のパネル。この方、以前このブログで論文を取り上げさせていただいた方です。実は今回見に行ったのも濱口氏がきっと新しい視点をくれるに違いないと直感的に思っていたから。

引用していいのかどうかわからないけど、パネルに書かれていた一部を抜粋。肝心のじゃあ何(モノ・コト)が「信じられるデザイン」なのという部分は直接会場に足を運んでご覧になってください。
「信じる」ということは、「信頼する・信用する・安心する」とはずいぶん違う。そもそも、確かなことや正しいことは信じなくてよい。実は「ふつうのモノ」や「かんぜんなモノ」ではなく、どこか未完成で、もしかすると裏切りがあるかもしれない「あやういモノ」こそが信じる対象となる。例えば、我々の未来はあやういからこそ信じたい。 
「信じる」には理由を超えた意思決定がなければならない。そしてそこには自由がある。敢えてあやうさを選ぶ自由。裏切られる自由。自らが失敗する自由。あやうさの先を夢見る自由。つまるところ信じられるデザインとは、ヒト・モノお互いのあやうさの上に成り立つ自由と緊張なのだと思う。 
だから「信じられるデザイン」とは「裏切られてもいいデザイン」「あやうさのデザイン」である。

「信じられる」のは「あやういモノ」であるからであるとの解釈、大変面白く思いました。他の方のほとんどがまさに「ふつうのモノ」「かんぜんなモノ」を取り上げられていたので、その対比が非常に印象的でした。

私はデザインの人ではないので偉そうなことは言えないですが、デザインとは未来を創るためのものだし、常に進化するし、完成などない。また、「信じる」という意思には使う人のモノ・コトへの能動的な関与があります(安心安全や定番はある意味で受動的です)。使う人も一体となったデザインとでも言うのでしょうか。そう考えると、濱口氏の言う「信じられるデザイン」はデザインの本質であるように思えます。

実験精神/未来志向の精神/リスク(あやうさ)に対峙する精神の大切さを改めて思い、刺激をいただきました。他にも色々な解釈がありましたので、一度見に行かれてはどうでしょうか。


2012年4月9日月曜日

プロセスの落とし穴 -プロセスはイノベーションを促すか、妨げるか-


私が気にしているからかも知れませんが、いろいろな記事で、デザイン、デザイン・シンキング、ユーザー中心のアプローチといった新しいイノベーションの方法論についての論稿をよく見かけるようになりました。当然ながら企業で新しい事業や仕掛けを検討している人たちもその重要性に気付き始めているのではないかと思います。

下記の記事では、企業は非常に整ったプロセスが好きであり、それなりのお金をかけてしっかりとしたプロセスを用意すれば、まるでトーストでパンが焼けるように6ヵ月後には業界のゲームを変えるイノベーションが生まれていると考えがちではないかという問題提起がされています。

The Seven Deadly Sins That Choke Out Innovation

こぎれいなプロセスを用意しそれに従いさえすればイノベーションは創造できるか。答えは、もちろん「No」です。私もよくやりがちなのですが、新しい考えややり方を学習する際に、どうしてもプロセスの理解や整理から入ってしまうところがあります。イノベーションを促すはずのプロセスが逆にイノベーションを妨げることさえあるとして、この記事では、IDEOのニューヨーク責任者Ryan Jacoby氏の講演より、こういったプロセスを重視しすぎた場合に陥りがちな7つの罠を紹介しています。まずは簡単に引用。
1: THINKING THE ANSWER IS IN HERE, RATHER THAN OUT THERE:答えは「あっち」ではなく「こっち」にあると考える
「我々は机とメールに囚われているが、ブラックベリーからはイノベーションは生まれてこない」と。オフィスを出て予期せぬ場所からのイノベーションにオープンになるべきであると言い、Jacoby氏は毎日の通勤路で写真を撮ることを課しているそう。 
2: TALKING ABOUT IT RATHER THAN BUILDING IT:「作る」よりも「協議する」
1に関連して、我々は会議・メモ・ディスカッションの世界に生きていて、これらは往々にして何か行動をすることを妨げると。作ってみること、そこから生まれる(洗練されていないかもしれない)プロトタイプはチームをモチベートしいつもと異なった思考を行うことを促すと言います。 
3: EXECUTING WHEN WE SHOULD BE EXPLORING:「探索」すべき時に「実行」する
これもその名の通りで、まだ探索をすべき早すぎる段階で、プロジェクトの方向性の確定を行ってしまうマネジメントが行われがちと言います。 
4: BEING SMART:スマートであろうとする
イノベーションとはまだこの世に見ない新しいアイデアであるため、誤りを恐れていてはイノベーションを導くことはできないという話。 
5: BEING IMPATIENT FOR THE WRONG THINGS:誤りを受け止められない
イノベーションは時間がかかるが、エグゼクティブは往々にして早すぎるタイミングで非現実的な成果を求めがちと言います。 
6: CONFUSING CROSS-FUNCTIONALITY WITH DIVERSE VIEWPOINTS:多様性を目的にしたクロスファンクショナルチームへの戸惑い
「多様性がイノベーションの鍵」と。ただそれは単純にいくつかの機能を寄せ集めるという通常企業が行うクロスファンクションとは異なるため、そこに戸惑いが生じやすいと言います。 
7: BELIEVING PROCESS WILL SAVE YOU:プロセスがあれば大丈夫と信じる
イノベーション戦略を簡単に買うことはできないし、例え何か目に見える製品を生み出すことができたとしてもそのプロセスが成功を保証するわけでもない。プロセスを学び、プロセスを実行し、そのプロセスの中で(イノベーションを)リードするしかないと言います。

なるほど、確かにありそうな罠です。教科書を用意したら逆に教科書通りに進まないといったような感じです。イノベーションのプロセスを用意したのに、それが逆にイノベーションを妨げていると。

では、なぜこのようなことが起こってしまうのでしょうか。私は下記のような要因があるのではないかと思います。
・これまでのやり方に同質化する
プロセスに落とし込もうとすると、結局これまでと同じような発想で、会議体を設定して、議論・合意して、実行して、振り返るために会議体を設定して・・・と既存のレールの上にパーツを置いてしまう。結果何も変わらないプロセスが出来上がってしまうというオチ。 
・表面だけなぞって「それやってる」感が生まれる
デザイン・シンキングと言うと響きは新しいですが、プロセスとして教科書的になり、要素だけをかいつまんで表面をなぞれば、これまで自分たちがやってきたことと対して変わらないじゃないかという話が出てきそうです。例えば、人間中心って現場主義・顧客主義と何が違うの?プロトタイプってやってるよ?みたいな。既存の何かに置き換えてしまうという現象。 
・プロセスに従うことが目的化する
未知な領域、取り組みだからこそプロセスに助けてもらう意義も大きいのですが、逆に言うと、よくわからないことに取り組んでいるので目の前にあるプロセスに固執しこれに従うことが目的化してしまうリスクあり。 
・プロセスが正しい=結果が伴う、という等式が前提になる
プロセスに従えば結果が伴うというある種の信頼感(甘え?)によって、そこに生まれる混沌や誤りを受け止められない、ということが起こりうる。誤りや失敗から学ぶことが重要なのですが。 
・他から学習すること、疑うことが止まる
本来、プロセスはマニュアルではないので、それをベースに実践をしながらも、他から学習し、疑い、改善や実践に適応した形にアレンジしていくもの。現実は、プロセスになっていないこと=悪・ルール違反、といった誤った認識が生まれがち。

他にもあるかもしれません。いずれも、ものごとの本質を理解せずに、また実践を通じた実感値として腹に落とさずに、一足飛びにプロセスに落とし込んだ(本質を理解しない人たちにプロセスに従わせた)瞬間に起こりうる現象かと思います。

これらは、組織にイノベーションを根付かせる際の壁についての議論のように見えますが、個人が身近なところで新しいことを発想したり実行に移したりする際にも当てはまること。プロセス思考の気のある自分に自戒の意味を込めて。このブログもそうならないようにしないと。。

2012年3月29日木曜日

企業の存在証明 -リサーチ会社はリサーチを使って意思決定しているのか-


突然ですが、もしもこんな会社に営業されたらどうですか?
  • 自動車の営業マンがプライベートではマイカーを持っていない
  • 生命保険の販売員が生命保険に入っていない
  • 新聞社に勤めているのに自宅では新聞をとっていない

このようなことが実際にあるのかどうかは知らないですが、仮にそのような実態があるということをお客さんが知ったら、きっとその会社の商品・サービスを買うのを躊躇してしまうのではないでしょうか。自社の商品・サービスを実際に使い、その利用価値や使い勝手に精通しているということがその企業の存在証明の大事な一つかと思います。まずは自分たちからということで、自社の製品・サービスについてその効果を身を持って示さないと、お客さんからの信頼や共感は得られないでしょう。

・リサーチサービスの企画にリサーチは活用されているのか
翻って、リサーチ会社はどうでしょうか。つまり、「リサーチ会社はリサーチを使って意思決定しているのか」という疑問です。例えば、リサーチ会社はどのようにして新しいサービスを企画・開発しているのか。

ところで、企画の世界では、新しいサービスを企画する際にリサーチを活用できるかどうかという是非論はよく聞かれる話で、以下の故スティーブ・ジョブスの言葉が有名です。
「「顧客が望むモノを提供しろ」という人もいる。僕の考え方は違う。顧客が今後、何を望むようになるのか、それを顧客本人よりも早くつかむのが僕らの仕事なんだ。ヘンリー・フォードも似たようなことを言ったらしい。「なにが欲しいかと顧客にたずねていたら、『足が速い馬』と言われたはずだ」って。欲しいモノを見せてあげなければ、みんな、それが欲しいなんてわからないんだ。だから僕は市場調査に頼らない。歴史のページにまだ書かれていないことを読み取るのが僕らの仕事なんだ。」
「アレクサンダー・グラハム・ベルが電話を発明したとき、市場調査をしたと思うかい?」

これ、リサーチ会社が「いや、その通り。うちのサービス企画は基本的にトップの発案ベースか、もしくは懇意なクライアントのニーズドリブンで作ってみる感じ。それが他にも売れればめっけもんという感じですかね」という感じだったらどうでしょうか。これはある種の自己否定であり、クライアントもそのような会社からはリサーチをお願いしたいとは思わないでしょう。

また、リサーチの是非論に対抗すべく、独自性が高く競合優位なサービスが「リサーチの活用」で見出せると言うならば、リサーチ会社のサービスはもっと多様に各社個性のあるラインナップになっても良いはずではないでしょうか。こう言ってはあれですが、各社似たようなサービスばかりのような気がするようなしないような。。

・リサーチ会社の経営におけるリサーチ活用の実態は
上記では例としてリサーチを用いた新サービスの企画を取り上げましたが、他にも、下記のような目的・用途で、自社サービスをクライアントに対して営業したり、コンセプトとして打ち出したりしていると思います。それぞれ翻ってリサーチ会社は自社の戦略立案、意思決定にはどの程度活用できているのでしょうか。そしてそれをケースとして紹介できているのでしょうか。
  • 【 サービスの企画 】
    社内企画部署での机上の議論だけに閉じて企画をやってないか?懇意にしているクライアントの声だけ聞いてないか?
  • 【 サービスの仮説検証・改善 】
    新しいサービス企画を世に出す前に仮説検証はされているか?あるいは定点的に検証・改善を行うためのモニタリングをできているか?
  • 【 サービスの本質的な見直し 】
    営業的なヒアリングに基づく「オペレーションの改善」だけではなく、何かしらの調査に基づく「バリュープロポジションの見直し」はされているか?
  • 【 定量的な市場把握 】
    経営計画という側面では当然「リサーチ市場」の規模をばっくりと把握はしていると思うが、個別のサービスライン毎に市場規模や展望を定量的に把握できているか?
    (例えば、定量/定性調査の市場規模を営業マンに聞いて答えられる人はどれくらいいるのだろう。。)
  • 【 顧客の声の傾聴 】
    顧客の声を多面的に拾う仕組みはどの程度整っているのか?
    (現状は営業が聞くくらい、あるいはCS調査くらいか?ソーシャルメディアやコミュニティを使った傾聴だと言って、自分たちは何かやっているか?)
  • 【 その他(Co-creation、Ideation等)】
    「客とともに創る」「オープンイノベーションを行う」といった新しい声の拾い方・活用の仕方にチャレンジしているのか?

上記、実情がわからず書いていますが、実際どうなのかなと。

・自社品・サービスを活用した場合のアウトカム見える化が求められている
こういう話をしていると、「自分が一消費者でもあるB2Cと、法人相手のB2Bは違うんだよ」という声もありそうではあります。

しかし、例えばB2Bの典型である材料メーカーでも、その材料がどのように有用なのか、どのような完成品への応用があるのか、完成品の試作に乗り出すということをやっているようです。このように、自社がまずは自社品・サービス活用の実践者になり、活用すればどのようなアウトカムが期待できるのかという実践例を提示することへの要請は強くなってきているように思います。

例)東レ、炭素繊維を使った次世代型EV試作 4割超の軽量化実現


リサーチも守備範囲が広くなり、また従来型リサーチはどうなのかという疑問の声も挙がりつつある中で、その目的や用途に応じた実践例の提示が求められているように思います。リサーチ会社は、企業レベルで「何をやるか」の検討に、リサーチの活用を進めるべきではないでしょうか。そこで何か新しい方向性を見出せるのであれば、クライアントもリサーチの効用を理解するに違いありません。

2012年3月22日木曜日

ビジネスにもアジャイルという方法を -誤りや変化を歓迎する方法論-


前回のエントリに続いて『Subject To Change ―予測不可能な世界で最高の製品とサービスを作る』から、ソフトウェア開発の考え方の一つである「アジャイルアプローチ」というものを取り上げます。ちなみに、アジャイルとは素早い、機敏な、という意味。

・アジャイルアプローチとは
従来のメインストリームであった方法論は、開発がまるで滝が流れ落ちるように分析から設計・実装・テスト・リリース・保守と逐次的に段階的に進められることから、「ウォーターフォールアプローチ」と言われ、基本的には開発は当初の計画に忠実に、作業はしっかりと分業され整然と進められるという前提に立っています。一方で、「アジャイルアプローチ」は、全てのことを予測できるわけではないし普遍であることはなく(変化する)、その状況に応じた修正を顧客を巻き込みながら進めるべきという前提に立った方法論です。

その哲学・価値観は下記の「アジャイルソフトウェア開発宣言」として明文化されています。

アジャイルソフトウェア開発宣言

私たちは、ソフトウェア開発の実践
あるいは実践を手助けをする活動を通じて、
よりよい開発方法を見つけだそうとしている。
この活動を通して、私たちは以下の価値に至った。

プロセスやツール よりも 個人と対話を、
包括的なドキュメント よりも 動くソフトウェアを、
契約交渉 よりも 顧客との協調を、
計画に従うこと よりも 変化への対応を、

価値とする。
すなわち、左記のことがらに価値があることを認めながらも、私たちは右記のことがらにより価値をおく。

また、アジャイルアプローチで重視される方策は下記のようなものです。

  • 反復重視のプロセス。開発を通じてのみ見えてくるニーズにすばやく適応する比較的短期の開発サイクルから成る。
  • 顧客を開発プロセスに引き込む。
  • 物事を正すことを評価する。すなわち早い時期に確実に、基本的な誤りや非効率の長期化や再発を防ぐ行動を評価する。


・アジャイルのビジネスへの応用
少し前置きが長くなりましたが、アジャイルはあくまでもソフトウェア開発において提唱されたものではあるものの、これからのビジネスにも大いに参考になる指針であるように思います。例えば何かの製品やサービスを企画するといった場合、特に下記の点で参考にすべき点は大きいのではないでしょうか。

①変化を前提に柔軟に動ける
変化を前提としたアジャイルの考え方はビジネスにも有効です。ソフトウェアが変化にされされているのであれば、当然その上位概念であるビジネスにおいても日々変化に目を向ける必要があります。事業の「ピボット」(方向転換)という考え方も最近はよく言われますが、ビジネス環境やトレンドに変化が大きく、顧客の趣向の様々という場合、変化を前提にしながら仮説検証を高速に繰り返すモデルは親和性があります。

②失敗を歓迎することができる(ポジティブに生かす)
従来型の開発では、誤りはエラーだと捉えられるため、それが有用な発見であるという考えはなされにくい状況でした。考えてみれば、プロジェクト開始後1年や2年経ってから、アプローチの基本的な部分に欠陥があるということは認めたくないのも当然です。そのため、下記図(本書より)のようにプロジェクトの環境への順応性は時間が経過するにつれ大きく乖離していきます。ただ失敗は市場からの貴重なフィードバックです。その意味では、効率性や費用効果という意味でも昨今の環境においては有効な手段であると考えられています。

③デザイン・シンキングにフィットする
このアジャイルという考え方は、「人間中心のデザイン」「デザイン・シンキング」といった今後のビジネスで重要になってくるであろうコンセプトにすごく親和性があるように思います。例えば、以前のエントリで引用したIDEOのCEOティム・ブラウンのこの考え方。
中心にいるのは人間であるということである。したがって、最善のアイデアと究極の解決策を見出すには、人間中心で、創造的でしつこく繰り返す、実用的なアプローチが必要である。そのようなアプローチこそ、イノベーションにデザイン思考を生かすことにほかならない。

デザイン・シンキングで重要となってくるブレストやプロトタイプ、ユーザー視点といったところが、上記の宣言の価値観に符合します。ここでは同じくIDEOのCEOティム・ブラウンが、TED講演で挙げたビジネスにおいてデザインを取り入れるための3つのキーコンセプトを引用します。

  • Exploration : Go for quantityブレスト >>対話の重視
  • Building : Think with your handsプロトタイプ >>ソフトウェアが動くことを重視
  • Role play : Act it outユーザー視点 >>顧客との協調を重視

上記の3つのコンセプトは線形ではなく繰り返すことに意味があるという考え方ですので、アジャイルの「変化への対応」というところも一致するものと思います。

このアジャイル的な考え方が実践されている一つの例として、最近記事で見たアップルのデザイン責任者ジョナサン・アイヴの下記の言葉。「デザインしながら、プロトタイピングしながら、作っていく」という言葉はまさにデザイン・シンキング的でありアジャイル的です。(当社がどう考えているのかは知りませんが)
Q: What makes design different at Apple? 
A: We struggle with the right words to describe the design process at Apple, but it is very much about designing and prototyping and making. When you separate those, I think the final result suffers. ...
※引用元:Sir Jonathan Ive: Knighted for services to ideas and innovation

・アジャイルを取り入れるにあたり気をつけたいこと
注意するべきは、宣言にも「左記のことがらに価値があることを認めながらも、私たちは右記のことがらにより価値をおく」とあるように、アジャイルかウォーターフォールかという二元論ではないということです。当然手続き論としてウォーターフォール的なアプローチの有効性もあるでしょうし、予測できる部分はオペレーティブに粛々とやり切るということは依然として重要です。

また、このアジャイル的な仕事のやり方、一見サクっと作って顧客にフィードバックもらって修正して・・・というように軽量級な仕事の進め方(悪く言うと適当に客におもねってる?)と見られがちですが、そのプロセスはなかなか険しいように思います。まさに下記のように。
Perservance is not a long race; it is many short races one after another. (Walter Elliott)
忍耐力とは、1回の長距離走ではなく、短距離走を次々とこなす力である。

現在のビジネス(業種によるかも知れませんが)において、このような考え方がますます重要になってくるのは確かなことのように思います。ちょっと意識しながら仕事を進めてみたいなと。

2012年3月21日水曜日

体験が製品 -プロトタイプを通じた体験のリ・デザイン(薬剤ボトルの例)-


知人に紹介してもらった『Subject To Change ―予測不可能な世界で最高の製品とサービスを作る』という本を読んでいます。この本、イノベーションやデザインという文脈ですごくいいので、また機会があればポイントをまとめたいのですが、その中で出てきた「体験が製品」という言葉が印象的です。物理的なモノそれ自体だけが製品ではなく、それを見つけて検討して買って使って捨てて・・・といった一連の「体験」も含んだ全体が製品である、という考え方です。

・「体験」をプロトタイプに持ち込む
本書では、「体験が製品」という考え方において、「体験プロトタイプ」つまり体験という観点からユーザー視点のプロトタイプを作りテストすることの重要性が説かれています。これは、以前のエントリで取り上げた「人間中心のデザイン」の実践への落とし込みの一つの例かと思います。本書には、この「体験プロトタイプ」を通して処方薬保管ボトルをユーザー体験上より良くするプロジェクトについてのケーススタディが掲載されていました。大変面白そうだったので詳細をネットで調べてみましたのでご紹介。元記事は下記になります。

ClearRx Prescription System
The Perfect Prescription How the pill bottle was remade sensibly and beautifully.

このケースの主役Deborah Adlerというグラフィックデザイナーの女性は、当時薬局で処方薬を入れて患者に配布されていたボトルの小さくてごちゃごちゃしたラベルの記載が患者を誤飲等のリスクにさらしているという問題意識を持ち、大学の卒業プロジェクト('Safe Rx'という呼称)でこのボトルの改善に取り組んだということです。ここでポイントになったのはそのボトルを使用するユーザー視点での体験。このボトルは'Clear Rx'という製品名で「ターゲット」という薬局で実用化がされており、デザインが優れているということから当時ニューヨークのMoMAにも展示がされたそうです。

・「体験プロトタイプ」のケース
'Safe Rx'プロジェクトの概要をざっとまとめると下記のような感じです。(日本語訳には多少の意訳が含まれます)

【背景】
当時(というか今でも?)米国で標準的な処方薬保管ボトルは黄味がかったプラスティックボトルで、ラウンドした壁面に小さな字で説明書きがプリントがされているような状況で、何が入っていて患者がいつどのように服用すべきかが非常にわかりにくい状態だったというところが背景にあります。そんな状況が第二次世界大戦後から変わらず続いていたらしいです。実際に、当時の調査でも実に60%以上の患者が1回は他人の薬を間違って飲もうとしてしまったと答えていたそう。

【リ・デザイン(プロトタイピング)】
Before:当時の業界スタンダード



どれだけ「体験」がないがしろにされているのかを洗い出す。

  • 一貫性のないラベル:各薬局で情報の表示される位置がマチマチ
  • ブランディングに使われるラベル:薬品名・服用方法よりも大きく表示される薬局のロゴ
  • 紛らわしい数字:説明のない数字の印字("10"というのは10錠なのか1日10回なのか)
  • わかりにくい色味:オレンジのボトルにオレンジの字のような解読困難なカラーリング
  • カーブした形状の読みにくさ:ラベル情報を一度に見られるようにするには狭すぎる形状
  • 小さすぎる文字:細かな文字で狭いエリアにぎっしり情報が記載(読まずに捨てられるのが常)


After:リ・デザインされたプロトタイプ


Adler氏によるプロトタイプ。ボトルに日常触れ薬を服用する患者の「体験」を重視。

  • 外観よりも機能:美しさを犠牲にしても、本来あるべき薬剤の名前と服用方法を記載
  • カラーコーディネーション:家族全員のラベルの色を別個にし混乱を回避
  • インテリジェントな有効期限通知機能:薬剤の有効期限を通知するマーカーをラベルに搭載
  • ボトルの形状を変更:広くフラットな形状とし、文字が読みやすいD型(前面がカーブし後面がフラットの半円型)を採用
  • 情報の添付方法の変更:これまで情報は袋に印字されていたため捨てられやすかったところを、紙のカードに印字しボトルの溝に保持できるように変更
  • 文字を読みやすく:文字が小さすぎて読めない場合を想定して、薄い虫眼鏡の装備を検討
  • 服用スケジュールを記載:ボトルのてっぺんに服用タイミングを掲載


【アウトプット】
Adler氏のプロトタイプは「ターゲット」という薬局の目に留まり、'Clear Rx'という製品名で実用化がされました。プロタイプは、D型(半円型)の形状が子供の安全上危ないということから上下逆さまの形状が生まれる等、より体験に基づいたブラッシュアップされたようです。結果、こんな感じのボトルに。



  1.  わかりやすい薬剤名表示:薬剤の名前を一番目立つボトルのトップに記載
  2.  ボトルの色をひとつのサインに:世界共通の注意喚起の色である赤色のボトルを当該薬局のサインとして採用
  3. 情報を階層化して表示:優先度の高い薬剤名、用量等を先頭に、優先度の低い使用期限や医師名等はサブに表示
  4. 上下逆の形状:通常と上下逆さまのキャップが下に来る形状で、ラベルが上部にも貼れるように修正
  5. 自分のボトルがわかる色の工夫.:ボトルの首の部分に家族それぞれ異なる色のラバーの輪を装着し取り違え防止
  6. 薬剤の詳細情報をカード化:副作用情報等の情報をカード化し、ラベルの裏に挟みこめる設計
  7. ユニバーサルな表記に:'once'はスペイン語で「11」を意味するため、'daily'という表現を活用
  8. わかりやすい注意喚起のサイン:従来のわかりにくい注意喚起(例:服用は空腹時に)を25個にわたって修正


・最後に:「体験プロトタイプ」の意味
ほぼ原形をとどめていない最終形の形状やデザイン。まさに「体験」をベースに構造物の意味を問い直すとここまで仕上がりが違うのかという結果ですね。徹底的にユーザー目線です。

また、最終形がプロトタイプとも大きく形状が変わっている点が興味深いです。プロトタイプは壊すためにある、という感じでしょうか。ユーザー視点で発想を加えたり練り直す一つの土台としてのプロトタイプの役割(たたき台があることによってアイデアが出てくるという典型)ですね。

本書には初期のPDAを開発したPalmのジェフ・ホーキンス氏のエピソードも。
製品デザイナーのジェフ・ホーキンスは同僚たちのシャツのポケットのサイズを測り、そこにぴったり入るように木製のブロックを削り出した。ホーキンスはPDAを開発中で、デバイスが簡単に持ち歩ける大きさであることは不可欠であると知っていた。
ホーキンスはどこにでもこのブロックを持って行き、誰かが口にした日付や情報をメモしたいと思ったとき、その木製ブロックにその情報を入力するまねをした。エンジニアが新しい仕組みや機能を提案すると、木製ブロックを手に取って「それ、どこに入ると思う?」と尋ねた。木製ブロックのおかげで、デバイスのデザインにも開発にも簡潔さが徹底され、チーム全員がその感触の良い体験を繰り返し気付かされた。

ここにも共通するのは、プロトタイプが目の前にあると、それを持って重さや大きさを感じてみたり、イメージを投影してみたり、使うシーンを想像したり、という行為(=体験)が生まれ、そこからリアルな発想が生まれるということなのかと思います。言い換えると、体験まで配慮した製品を仕上げるためにはプロトタイプが不可欠、ということかと。「体験」を製品に組み込むことのできるプロトタイプを通じたデザインこそ「人間中心のデザイン」の重要なヒントだと感じました。

2012年3月13日火曜日

デザイン・シンキングのコンセプトチャート2枚 -IDEOティム・ブラウン氏のブログより-


デザインやデザイン・シンキングについて調べたりしているうちに、IDEOティム・ブラウン氏のブログに出会いました。残念ながら最近は更新頻度が減っているようですが。。ちなみに、ティム・ブラウンは先日のブログでTEDの講演を取り上げたのでご参考まで。

以前にも本ブログではデザイン・シンキングを取り上げてきましたが、その総本山的な人(企業)のブログ。その中から、デザイン・シンキングのコンセプトチャートを2枚引用させてもらいます。

こちらはデザイン・シンキングの定義について1枚で表現すると、といった図。


DESIGN THINKING THOUGHTS BY TIM BROWN 『Definitions of design thinking』より

文章でもデザイン・シンキングの定義がシンプルに書かれています。
Design thinking can be described as a discipline that uses the designer’s sensibility and methods to match people’s needs with what is technologically feasible and what a viable business strategy can convert into customer value and market opportunity.

2枚目のこちらは、デザイン・シンキングってどんな感じのもの?ということで、デザイン・シンキングにおける多元的な思考プロセスが1枚で表現された図。


DESIGN THINKING THOUGHTS BY TIM BROWN 『What does design thinking feel like?』より

divergence(発散)においては'creating choices'が、convergence(収束)においては'making choices'が行われ、analysis(分析)においては'breaking problems apart' が、synthesis(統合)においては'putting ideas together'が行われると。発散か収束か、分析か統合か、といった二元論ではなく、その両極を行ったり来たりする思考こそがデザイン・シンキングであるという点がポイントのようです。


2枚とも非常にシンプル且つコンセプチュアルで、"So What?"は自分でじっくりと考える必要があるのですが、常にデスクに置きながら仕事をしたいなという感じ。まとまりないですが、ちょっとした共有でした。

2012年3月8日木曜日

医療もメインフレームから分散型へ? -『医療をメインフレームから取り外そう』(TED動画)を見て-


今さらながらTEDはいいですね。またいいのを見つけてしまいました。今回ご紹介するものは、先日のエントリで紹介した「e-患者」の考え方にも関連のあるテーマで、世のシステムやITの世界のように、医療も「メインフレーム」(中央集約)から「個人中心型」(分散型)へ転換すべきという内容。

エリック・ディシュマンが説く「医療をメインフレームから取り外そう」




インテル調べ(氏はインテルの研究者)では、「医療と聞いてまず思いつくものは?」という質問に対する一般的な最初の答えは「医師」、二番目の答えは「病院」だそうです。私達の脳は機械的に医療と医療改革といえばこういう所で起きるものだと考えるようになっており、これこそが「メインフレーム」中毒であるとディシュマン氏は言います。この医療機関にお金をかけ、皆で通って共同使用するという考え方1787年に始まったものだそうで、初めての一般病院はウィーンで生まれたそうです。それ以来、病人は病院に行くもの、診療科は分かれているもの、といった固定化したメインフレーム思考が脈々と続いていると。

当然病院を中心とした仕組みは重要なものであり続けると思われますが、一方で部屋いっぱいの大きさが必要だったメインフレームコンピュータの処理能力が、手のひらに収まるサイズの携帯電話に搭載される時代、同じ考え方が医療にも適用されるべきであると言います。メインフレーム型の医療では、無保険者に対する医療は十分にできませんし、超高齢化社会においてその医療費は膨大になり中央集中的な受け皿だけでまかなえるものではなくなります。氏は、「個人中心型」の医療への転換をはかり、医療を家庭に移動・分散させることの重要性を説いています。

メインフレーム型の医療と個人中心型の医療の対比は下記のような転換で表現されています。



※TED動画『医療をメインフレームから取り外そう』より引用

この個人型医療は考え方として大きなパラダイム転換ではありますが、非常に身近なところにヒントがあることも事実です。例えば、ということで紹介されている、電話の家庭での個人中心型医療におけるツールとしての可能性。下記はお年寄りの健康状態をモニタリングする一例ですが、考えると色々ありそうだなと。

  • お年寄りが電話をとると、服用すべき薬を教えてくれるメッセージが聞こえる(薬を忘れずに正しく飲むためのツール)
  • お年寄りの電話の受け応えを長期的に見ていき、相手の認知に費やした時間の長さを調べる(初期の痴呆を感知する知覚テストのツール)
  • 電話が鳴ってから受話器を取るのに、以前より時間がかかっているかどうかを測る(耳が遠くなったのか、体が不自由になったのだろうか、といった老化度合いのモニタツール)
  • 声が以前より小さくなっていないかどうかを測る(アルツハイマーやパーキンソン病の患者に見られる声の変化を測るツール)
  • 受話器を取った時の手の震えを測る(初期の関節炎等の体の衰えの検知ツール)
  • 電話の頻度を測る(社交性の減少と将来の身体的健康との関係性の研究ツール)


このように家庭で拾える予防的指標を、ディシュマン氏は「行動指標」と呼んでいるようですが、まだまだ身近なツールや習慣性を利用し行動指標を拾う予防の取り組みはありそうです。このような動きはどれくらい加速してくるのか未知数かとは思いますが、押さえておきたい動きの一つですね。

2012年3月5日月曜日

「e-患者」が医療を変える -患者がより積極的に医療に参加する世界-

立て続けにTED動画のピックアップなのですが、今回は医療、特に患者についての動画。演者は自身ががん患者なのですが、'e-Patient'(e-患者)というキーワードを使い、医療において患者が今よりももっとエンパワーされより積極的な参加をできるようにすべきであるという主張を展開しています。にしても、ものすごくパワフルです、この人。まずは動画をどうぞ。

デイブ・デブロンカート:Meet e-Patient Dave




デブロンカート氏は「医療でもっとも活用されていない資源は患者」という言葉を引用し、これまで患者が主体的に医療情報にアクセスする難しさがあった状況を振り返ります。その上で、ウェブの登場で、情報は即座に入手できるようになり、ネット上で仲間を見つけ、集結し、情報交換することができるようになったことで、全てが変わったと言います。

そのような背景から、今後患者は「e-患者」になっていくだろうと続けます。「e-患者」のeとは、下記の4つのeで始まるキーワードです。

  • Equipped:準備が整っている
  • Engaged:深く携わっている
  • Empowered:力が付与されている
  • Enabled:可能性が満ち溢れている


但し、これは理想であり、まだ途上。概して、患者がアクセスできる情報は「他者」の記事、つまり一般的な事例や他の患者の症例であり、上記の4つのeを達成するために本当に必要なことは、患者自身が生データ(自身の健康・治療データ)にアクセスできるようになることであると主張しています。

この生データ(自身の健康・治療データ)へのアクセスがより患者の治療参加を加速させるという点、数字としても今後の伸びが非常に期待されています。

2011年で約150億円弱であった日本における健康管理サービス市場は平均130%弱の年成長率で、
2016年には約610億円の市場規模に達する見込み


出所:テクノ・システム・リサーチ:「在宅医療・健康管理ソリューション市場調査結果」より


また、少し古いですがこの『The New Era Of Interactive Health』という記事に'Interactive Health'というキーワードが紹介されています。言われているのは、個人の健康情報・データを簡単にリアルタイムに集め、管理し、分析し、理解し、トラッキングするサービスの必要性です。これもまた「e-患者」の流れの一つでしょう。

加えて、ソーシャルメディア、モバイル、ゲーム等の仕組みを組み込むことで、インタラクティブ性もそこに加わり、Amazon等の他のネット企業が行っているように'personalization''socialization''engagement'といった要素が加わってくるようなイメージです。

以下に、本文中に記載されている'Interactive Health'のポイントを抄訳で引用します。

  • Mobile and online applications for improving health are fast, simple and accessible anytime and anywhere.
    健康改善のためのモバイル/オンラインアプリに、早く、簡単にいつでもどこでもアクセス可能に。
  • Personalization reigns, and personalized tools help you receive secure, tailored, relevant and actionable health information that’s all about you.
    パーソナライズドが当たり前に。セキュアで個別化されていて、アクションに繋がる「自身の」健康情報を受け取ることが可能に。
  • 24/7 easy access to trusted physicians and their wisdom, online and offline, facilitate a continuum of care in a seamless, effective and secure way.
    オンライン/オフライン問わず、24時間、医師とその知恵にアクセス可能に。一連の治療をシームレスで効果的でセキュアな方法で促進。
  • Interactive technologies provide access to and facilitate communication with relevant, experienced individuals and support groups to help you make informed decisions.
    インタラクティブなテクノロジーが、適切で経験豊富な個人(患者?医師?)やサポートするグループへのアクセスとコミュニケーションを可能に。より情報に下支えされた決断をサポート。
  • Simple tools with game-like interactions make it fun to become and remain engaged in your health.
    ゲームの要素を取り入れたシンプルなツールによって、自身の健康に深く関わり続けることを楽しい作業に。


これらの考え方は、当然、既存の患者を減らす、あるいは既存の患者のQOL(Quality of Lie)を上げる、といったことに寄与しますが、加えて潜在的な患者を患者にさせない予防の意味でも重要であると思います。感覚値ですが、その社会的なインパクトは既存患者に対するものよりも大きいかも知れません。


2012年3月2日金曜日

遊びをいかに創造に生かすか -『ティム・ブラウン:創造性と遊び』(TED動画)を見て-

デザインに関連するインプットネタを色々と探していて、良い動画に出会ったのでサクッとご紹介。デザイン・コンサルティング会社IDEOのCEOティム・ブラウンのTEDでの講演。少し長め(30分程度)ですが、まずはその動画をどうぞ。

ティム・ブラウン:創造性と遊び(Tim Brown on creativity and play)





総じて語られているのは、「真剣な」ビジネスの場における「遊び」の重要性です。ビジネスや社会システムにおける問題解決にデザインを活用したコンサルテーションを提供することで有名なIDEO。デザイン(を活用した問題解決)のプロセスにおいては、多くのアイデアを探索する「生成的な段階(発散)」と、それらをつなぎ合わせてそこから解決策を探し出し「発展させる段階(収束)」が求められ、それぞれに「真剣さ」と「遊び」が必要になると言います。

この「遊び」の要素、我々が子供の時に学んだ行動であると言います。我々はいつの間に遊ぶことを忘れてしまうのでしょうか。
And there are a series of behaviors that we’ve learnt as kids, and that turn out to be quite useful to us as designers. They include exploration, which is about going for quantity; building, and thinking with your hands; and role-play, where acting it out helps us both to have more empathy for the situations in which we’re designing, and to create services and experiences that are seamless and authentic. 
私達が子供のときに学んだ数々の行動があり、それはデザイナーとしてとても役立つものだと分かりました。その行動は量を求める探索、自分の手で組み立て考えること、そして、ロールプレイして演じることで、私達のデザインする状況に感情移入することが出来 つなぎ目のない確かなサービスや体験を作り出せるようになるのです。

詳述は避けますが、動画中のスライドでは、下記の3ステップでまとめられていましたので、これも参考になると思います。

  1. Exploration : Go for quantity
  2. Building : Think with your hands
  3. Role play : Act it out

また、下記の言葉が印象的です。
"It’s not an ‘either/or,’ it’s an ‘and.’ You can be serious and play.”

「真剣さ」と「遊び」は、この両者の間を行き来できることが重要であり、どちらか一つだけで良いということもなければ、線形的に順序が完全に固まっているものでもないということです。つまり、「真剣さ」と「遊び」は「もしくは」ではなく「かつ」であるというわけです。

ただこれ、言うは易し行うは難し、ただ単に「遊び」を意識しているだけでは、なかなか実際の業務プロセスで実践できないのではないかと思います。IDEOもコンサルテーションを提供するだけではなく、方法論・プロセス自体の企業へのインストールもサービスとして提供しているようですが、業務プロセスの「ルール」としてこの「真剣な遊び」の要素を織り込んでおく必要があると言います。

この「ルール」は、突飛なアイデアを共有する、リスクを犯す、といったことを躊躇しなくても良いという安心感を生み出すための意味合いもあります。突飛なことを言うことを恥ずかしがらなくていいよ、と。また、古いルールや規範を創造のプロセスに持ち込ませないためでもあります。例えば、IDEOの提唱するブレストのルール(判断を控える、量を求める等々)などは有名です。

ここまで書いておきながら、私自身このようなルールを忠実にビジネスで実行してみたことがありません。どんな効果が得られるのか。彼らの言う'learning by doing'をしなくてはと思うので、機会を作ってやってみたいと思います。

2012年3月1日木曜日

「リ・デザイン」という考え方 -既知のものを未知なるものとして再解釈する-

デザインの学びの一貫として、『デザインのデザイン』(原研哉)を読みました。本書は次のような序文で始まります。
何かを分かるということは、何かについて定義できたり記述できたりすることではない。むしろ知っていたはずのものを未知なるものとして、そのリアルティにおののいてみることが、何かをもう少し深く認識することに繋がる。たとえば、ここにコップがひとつあるとしよう。あなたはこのコップについて分かっているかもしれない。しかしひとたび「コップをデザインしてください」と言われたらどうだろう。デザインすべき対象としてコップがあなたに示されたとたん、どんなコップにしようかと、あなたはコップについて少し分からなくなる。さらにコップから皿まで、微妙に深さの異なるガラスの入れ物が何十もあなたの目の前に一列に並べられる。グラデーションをなすその容器の中で、どこからがコップでどこからが皿であるか、その境界線を示すように言われたらどうだろうか。様々な深さの異なる容器の前であなたはとまどうだろう。こうしてあなたはコップについてまた少し分からなくなる。しかしコップについて分からなくなったあなたは、以前よりコップに対する認識が後退したわけではない。むしろその逆である。何も意識しないでそれをただコップと呼んでいたときよりも、いっそう注意深くそれについて考えるようになった。よりリアルにコップを感じ取ることができるようになった。

うーん、確かに。確かに普段知った気になっているものも、いざそれについて意味を考えたり、解釈を述べたり、その課題を聞かれたりすると、意外と分かっていないことは多くまだまだ探求の余地があるということは実感としてよくあります。

本書では、デザインというと「新しいもの」「無から有」を創造するといったイメージを持ちがちですが、それだけじゃないよ、と言うかむしろ既知のものを見つめ直しより良い価値を再創造することがデザインですよ、という話が目を引きます。筆者はそれを「リ・デザイン」と言っています。下記に気になった箇所を抜粋。
テクノロジーがもたらす新たな状況だけではなく、むしろ見慣れた日常の中に無数のデザインの可能性が眠っていることに今日のデザイナーたちは気付きはじめている。新奇なものをつくり出すだけが創造性ではない。見慣れたものを未知なるものとして再発見できる感性も同じく創造性である。既に手にしていながらその価値に気付かないでいる膨大な文化の蓄積とともに僕らは生きている。それらを未使用の資源として活用できる能力は、無から有を生み出すのと同様に創造的である。僕らの足下には巨大な鉱脈が手付かずのまま埋もれている。整数に対する小数のように、ものの見方は無限にあり、そのほとんどはまだ発見されていない。それらを目覚めさせ活性させることが「認識を肥やす」ことであり、ものと人間の関係を豊かにすることに繋がる。形や素材の斬新さで驚かせるのではなく、平凡に見える生活の隙間からしなやかで驚くべき発想を次々に取り出す独創性こそデザインである。
デザインは単につくる技術ではない。
(中略)
むしろ耳を澄まして目を凝らして、生活の中から新しい問いを発見していく営みがデザインである。
ごく身近なもののデザインを一から考え直してみることで、誰にでもよく分かる姿でデザインのリアリティを探ることである。ゼロから新しいものを生み出すことも創造だが、既知のものを未知化することもまた創造である。

合わせて、そのようなデザインはデザイナーの自己表現ではなく社会やユーザーを起点にするべきものであると言います。
デザインは基本的には個人の自己表出が動機ではなく、その発端は社会の側にある。社会の多くの人々と共有できる問題を発見し、それを解決していくプロセスにデザインの本質がある。

並行して最新のCasa BRUTUSの「Appleは何をデザインしたのか!?」を読んでいたのですが、Appleのデザイン責任者ジョナサン・アイブのインタビューコメントにも似たようなクダリがありました。
どこか新しい、これまでと違うからといってそれが良いものだとは限らないのです。デザイナーとして私たちがやろうとしてきたことは新しいものや違ったものをつくろうというのではなく、ただより良く(=better)しようということです。
デザインとはデザイナーの自己表現の場ではありません。

また、デザインコンサルティング会社IDEOのCEOティム・ブラウンは下記のように言っているらしいです。(手元にメモがあるのですが、出典不明。。)
初心者であるということは素晴らしい。それは自分が知らないことを知って、驚き、不思議に思う、その差分が価値を生むからだ。

いずれも革新的な価値を提供する(と言われている)企業やデザイナーがそのような発言をしていることは非常に興味深いと思います。'Something new'ではなく'Something valuable'を生み出すのがデザインなのでしょうか。

一つ前のエントリに書いたように、結局「誰のためのデザインなのか」という問いなのかも知れません。「新しい何か」というと、「誰にとって」という対象がある種なんでもありになります。企業にとって新しい、業界にとって新しい、というのも「新しい何か」ではあります。一方で、生み出すものを「価値ある何か」と定義すると、誰にとって価値があるのかという点でそこには明確な対象(ユーザー、人間)が浮かび上がります。それが既存の価値からすると新しいことが多いため「新しい何か」にもなり得る。ここにデザインの一つのポイントがあるのかも知れません。

2012年2月26日日曜日

人間中心のデザインの原則 -『誰のためのデザイン?』を読んで-


皆さんは下記のような経験はありませんか?

  • ドアを開けたいんだけど、パッと見て押したらいいのか引いたらいいのか、はたまた横に滑るのかがわからない
  • 蛇口をどっちに倒したり捻れば水が出るのか、温水/冷水の切り替えはどうすればいいのかわからない
  • オフィスの入り口にある電源スイッチのどれを押せばどこの電気が点灯するのかわからない
  • リモコンでプロジェクターに投影されているスライドの進行をしたいのだけど、間違ってバックしたり変なメニューが表示されたりする

これは全てそのような誤りをしたユーザが悪いのではありません。デザインが悪いのです。受け売りですが。。

一つ前のブログに書いたように、ビジネスや問題解決の文脈におけるデザインの可能性について書籍などをあたりながら考えを深めています。その一環で読んだのがD.A.ノーマンの『誰のためのデザイン? 認知科学者のデザイン原論』です。1990年ごろの古い作品ですが、気付きを多く得られる良書です。


・デザインはどうあるべきか
本書では、心理学者、認知科学者である著者が、人の認知構造も踏まえながら、デザイン(主に製品デザイン)はどうあるべきで(何がダメなデザインで)、デザインの原理原則はどのようなものであるかを論じています。筆者が主張するのは「ユーザ(人間)中心のデザイン」。まずデザインはどうあるべきかというところについて、簡単に言うと下記の2点を確実に守ることであると言います。
  • ユーザが何をしたらよいかわかるようにしておくこと
  • 何が起きているのかをユーザにわかるようにしておくこと

もう少し分解して整理すると、デザインは下記のようにあるべきであると言います。
  • いついかなるときにも、その時点でどんな行為をすることができるのかを簡単にわかるようにしておくこと
  • 対象を目に見えるようにすること。システムの概念モデルや、他にはどんな行為を行うことができるか、そして、行為の結果なども目に見えるようにすること
  • システムの現在の状態を評価しやすくしておくこと
  • 意図とその実現に必要な行為の対応関係、行為とその結果起こることとの対応関係、目に見える情報とシステムの状態の解釈の対応関係などにおいて、自然な対応づけを尊重し、それに従うこと

本書は基本的に製品や狭義のシステムのデザインを念頭において書かれているように思いますが、上記は広義のシステム(例えば、医療システムのような社会システム)にも当てはまるような気がします。


・デザインの7原則
では、そのような課題に対してデザイナーはどのように取り組めばいいのか。著者はデザインの7つの原則として下記を挙げています。
  1. 外界にある知識と頭の中にある知識の両者を利用する
  2. 作業の構造を単純化する
  3. 対象を目に見えるようにして、実行のへだたりと評価のへだたりに橋をかける
  4. 対応づけを正しくする
  5. 自然の制約や人工的な制約などの制約の力を活用する
  6. エラーに備えたデザインをする
  7. 以上のすべてがうまくいかないときには標準化をする

少し具体的に一つずつ見ていきたいと思います。少し長くなります。

1. 外界にある知識と頭の中にある知識の両者を利用する
人は自身の頭の中にある知識が不正確であっても正確な行動をとることができます。例えば、PCのキーの配列を書けと言われても書けませんが、日々ブラインドタッチで仕事をしていたりします。これは逆に言うと、人間は全ての知識を頭に詰め込むことはできないということであり、その限られた情報量の中でいかに外界の情報を活用しうまくモノゴトを進められるようにデザインできるかということでしょう。

本書では、知識が不正確なものであっても正確な行動を行うことができる4つの理由を挙げています。どれも納得。これぞデザインの領域かと。
・情報は外界にある
ある課題を行うために必要な知識の多くは外界に存在しうる。行動は記憶にある情報と外界にある情報を組み合わせることによって決定される。 
・極度の精密さは必要でない
知識の精密さ、正確さ、完全さはめったに必要とされない。正しい選択肢を他のものから見極めるのに十分なだけの情報や行動を知識から引き出すことができさえすれば、完全な行動をすることができる。 
・自然な制約が存在する
外界の制約が許される行動を決める。どういう順序で部品を組み合わせるかとか、そのものがどのように動かされたり、つかまれたり、あるいはその他の操作をされたりするのかの可能な操作の範囲は、そのものの物理的な特徴によって制約される 
・文化的な制約が存在する
自然にある物理的な制約以外にも、社会的な行動として何がふさわしいものであるかを決めるためのさまざまな人工的な慣習が社会の中で発達してきた。これらの文化的な慣習は学習しなければならない。けれども、一度学んでしまえばさまざまな状況に適用することができる。

著者は、人は「ofの知識(事実についての知識)」と「howの知識(手続きについての知識)」という2種類の知識を使って活動していると言います。前者は文章にするのも容易だし、教えるの簡単。後者は意識下の暗黙知であり、言語化が難しくやってみせることによって教え、やってみることによって学ぶのが一番、という特徴をそれぞれ持っていると。

手続き=マニュアルではありません。現にPCキーの打ち方(並びの習得)をマニュアルを見て覚えた人がどれだけいるでしょうか。後者の「howの知識」については特に、外界の情報をうまく活用し、経験や学びを加速させる環境を作り上げるデザインの領域なのでしょう。

2. 作業の構造を単純化する

デザインの要諦として挙げられていた「ユーザが何をしたらよいかわかるようにする」という点に大きく関係するようになると思いますが、同じアウトカムや目的であるならば作業をシンプルにわかりやすくということかと思います。

作業の構造が単純でありユーザーが何をしたらよいか一目で分かるということ、Appleのデザインを一手に担うジョナサン・アイブも下記のように述べています。最新のCasa BRUTUSの「Appleは何をデザインしたのか!?」でのインタビューコメントです。
本当にシンプルなプロダクトというのは、 明瞭かつ秩序ある方法でそのものが何であり何に使われるものなのかを伝えてくれるものだと思います。 シンプルさは透明性をもたらし、透明性を持っていてこそ美しいのです。 シンプルであるということはとても難しい。 それは私たちにとっても終わりなき探求なのです。
私たちは、ほかの方法を取るのが不可能であり、完全に必然性があるといえる、本当にシンプルなプロダクトを作りたいと思っているのです。

さて、本書では技術を使った4つの簡単化について書かれていましたのでメモ。見た目のシンプルさもそうでしょうがユーザーの目線でその作業や行動をよりシンプルにしてあげるというコンセプトです。
  1. 作業は以前と同じままで、メンタルエイド(思考・記憶上の手助け)を利用できるようにする
  2. 技術を使ってこれまで目に見えなかったものを目に見えるようにし、その結果としてフィードバックや対象をコントロールする能力を向上させる
  3. 作業は以前と同じままで自動化を進める
  4. 作業の性質自体を変更する

3. 対象を目に見えるようにして、実行のへだたりと評価のへだたりに橋をかける
これは「可視性」という考え方で、人が操作するときに重要な部分は目に見えなくてはならない。また、それは適切なメッセージを伝えなくてはならない、という原則です。例えば、押してあけるドアならば、どこを押したらいいのかを自然に伝えるシグナルをデザイナーは提供しなくてはなりません。下の2つの写真を見て、どこを押したらよいかわかりやすいドアはどちらでしょうか。(ちょっと見えにくくてすみません。。)


「可視性」はそのものをどのように使うことができるかを決定する最も基礎的な特徴であり、著者はこの可視性が備わっており、特別意識しなくても自然に解釈されるデザインを「自然なデザイン」と呼んでいます。下記の言葉が象徴的です。
単純なものに絵やラベルや説明が必要であるとしたら、そのデザインは失敗

4. 対応づけを正しくする
これは、個人的には3の対象の可視性と区別が難しいと思っているのですが、あるものを見てこう操作したい(できそう)と思ったことがストレートにイメージどおりの操作としてできるか、何をしたらどのような変化や反応がありそうか一目でわかるか(実際にそうなるか)といったインプット/アウトプットの対応づけがうまくなされているかということです。筆者は対応付けのポイントとして下記の4つを挙げています。
  1. 意図とその時点でユーザが実行できる行為の関係
  2. ユーザの行為とそれがシステムにおよぼす影響の関係
  3. システムの実際の内部状態と目で見たり聞いたり感じとれたりするものの間の関係
  4. ユーザが知覚できるシステムの状態とユーザの欲求・意図・期待の関係

わかりやすい例が、プリウスのエンジン音だと思います。プリウスはエンジン音がかなり小さく無音に近いですが、あえてエンジン音を人工的に出すようにしていて、それによって無音が招く不慮の事故を回避するということをしています。これは「エンジン音がすれば車が来る」という人間の意識にある対応付けを実現している例かと思います。

他にも、例えば自転車のギアはどちらが前輪後輪でどっち側に押せばギアが上がるのか下がるのかわかりにくかったり、複数コンロの場合どのツマミを回せばどのコンロの火がつくのかわかりにくかったりというのも、この対応付けの問題に相当します。個人的には商業施設のトイレにある多目的ルーム、内側から閉じるボタンを押しても通常のドアのように鍵がかかった感がないので、いつも不安になるんですよね。。

5. 自然の制約や人工的な制約などの制約の力を活用する
デザインにおいては、やれることをいかにわかりやすく伝えるかだけではなく、やれないこと(制約)をいかにうまく活用するかということも重要になってきます。制約をうまく活用することで、その製品で本来してほしいことやれることを最大限にレバレッジすることが可能になります。例えば、ハサミの指を通す穴は二つあり(場合によっては大小があり)、他の指を当てる部分の窪みがあったりしますが、これもどのように持ってもらうことが一番ハサミを有効に使えるかを誘導する一つの制約であると言えます。

この制約について、筆者は大きく4つの制約がありうると述べています。
  1. 物理的な制約
  2. 意味的な制約
  3. 文化的な制約
  4. 論理的な制約

何かものごとを行う際に、これらの制約がどのように効いてくるかというわかりやすい例として、警察のオートバイのLEGOブロックを組み立てる際に、人はこれらの制約をどのように活用しているのかがありましたので、ご紹介。
1. 物理的な制約:
大きな突起は小さな穴に差し込めない。オートバイの風よけは、一つのところにそれも一定の向きにしかつけられない。 
2. 意味的な制約:
オートバイに乗る人は必ず前向き。風よけはその役割から乗り手の前。 
3. 文化的な制約:
赤いライトは普通後ろ、白や黄色はヘッドライトが普通なので前。 
4. 論理的な制約:
もう一つよく位置づけのよくわからない青いライトがあったとしても、論理的に残りの一つの枠にはまる。

6. エラーに備えたデザインをする
幾ら万全にデザインをしても、製品を多くのユーザーが使うとなると何かしらイレギュラーな使い方をされたり、思わぬエラーが起こったりするものです。そこまで想定した設計をするのがデザインであると言います。例えば、何かコピー機でコピーやスキャンをした時に原本を忘れるということをした人は多いでしょう。このエラーをどのように防ぐのかといったことまで含めてデザインであるということです。

エラーに備えたデザインをするとはどういうことか、4つのすべきことを抜粋します。
  1. エラーの原因を理解し、その原因が最も少なくなるようにデザインすること。
  2. 行為は元に戻すことができるようにすること。そうできないとしたら、元に戻せない操作はやりにくくしておくこと。
  3. 生じたエラーを発見しやすくすること。また、それは訂正しやすくしておくこと。
  4. エラーに対する態度を変えてみるべきだ。それを使っている人は作業をしようと試みているのであって、そのために不完全ながら目標に少しずつ近付いてきているのであると考えてみること。ユーザーがエラーを犯していると考えるべきではない。ユーザーの行動は望んでいることに少しでも近付こうとする試みであると考えること。

7. 以上のすべてがうまくいかないときには標準化をする
最後の手段として、ユーザーの行為やシステムの配置や表示を標準化し、国際的な標準を作成します。例えば、キーボードの配列、交通標識や信号、測定の単位(メートル等)、カレンダーといったようなイメージです。但し、標準としての合意を取るコストが大きくかかりますし、どの時点で標準化するかという点も問題となります。


・人間の行動やスタイルを導くことがデザイン
総じてみると、シンプルですが、ユーザーがその製品を一目見て何をしたら良いかわかること、何が起きてるかわかることが、デザインの根幹を担うということがわかります。マニュアルではなくデザインだけでその製品の全容がわかるということだと思います。筆者が主張するのは、「ユーザ(人間)中心のデザイン」です。

本書に一つの面白い例が紹介されていました。文章を書く方法が文章のスタイルにどう影響するかという話です。はるか昔、羊皮紙の上に羽ペンとインクで書いていたころには訂正が困難なので、事前に注意深く考えられ推敲が重ねられるため、できあがった文章は長くて修辞を尽くしたものであったと言います。これがより訂正が簡単な紙やペンが登場すると、文章作成もずっと手早くなされ十分に注意深く考えた上のものではなくなり、日常の会話により近いものになった。更にはPCでのタイプともなると思考の速さに記述がほぼ追いついていくことができるため、また違った文章のスタイルになってくるだろうということです。

このように、デザインや用いる技術によって良くも悪くも人間の生活のスタイルが変わります。人の行動やスタイルを導くことがデザイン、と言い換えることができるかもしれません。それだけに、一層「ユーザ(人間)中心」で考えることがいかに重要かということなのでしょう。

2012年2月23日木曜日

「神は細部に宿る」は正しく使おう -「言葉」の持つ誤ったことを正当化してしまう怖さ-


「神は細部に宿る」という言葉。出典は諸説あるそうですが、建築とかそっち方面の言葉のようです。

これ本来は、「大きな目的・ゴールの達成のためには、(その重要な構成要素・手段である場合)ディテールにも拘らないとその高次での達成は難しい」というような意味だと思っているのですが、なんだか細かくチェックすることただその行為を「神は細部に宿る」といった言葉で正当化するような場面に出くわすことがあります。

私は目的を外れた、あるいは外れていなくても他に目的達成に重要なことがある場合、細かくあることは逆に悪であるとも思っています。ということで、なぜ目的に外れた細かさの追求がされてしまうのか、考えてみました。下記のようなところが主だった要因かと思います。

・サイロに陥っている
サイロとは家畜の飼料や穀物などの貯蔵庫を意味し、「窓がなく周囲が見えない」ことから、外部との連携を持たずに自己中心的で孤立している様を表します。「木を見て森を見ず」と言ったほうがわかりやすいかもしれませんが、全体像が見えない中で何か一つのことに盲目になることは、優先順位を付けるということをできなくさせます。

・全てのものは有限という認識不足
時間、金、その他リソース、全て有限です。無限なのであれば幾らでも細かさを追求することは自由ですが、ことビジネスにおいては有限のリソースの中でいかに目的を達成するかが重要です。

・スピードという新たな質への理解の欠如
細かさを追求する人と議論をすると大抵「質」の話が出てきます。ただその質の議論は非常に一面的であって、昨今のビジネス環境においては「スピード」という新たな質の存在を忘れてはいけません。

・手段の目的化
これは過度の専門化が進んだ人や部門に良く見られる傾向かと思います。多分それをやっている人たちに職人としての誇りこそあれ悪気はないのでしょう。

・評価指標の取り違え
細かく何かを突きつめてやってみた・チェックしたということで、あたかも仕事をちゃんとやりましたというアピールをするケースです。プロセスを軽視するわけではありませんが、やはり仕事は第一に目的に対するアウトカムで評価されるべきです。

・限界効用逓減の法則への理解の欠如
「限界効用逓減の法則」をWikiから引用すると下記。細かさを追求したところで追求すればするほど「一細かさ」当たり得られる効用は逓減します、という話です。特にオペレーティブなことで細部に拘る人に、これへの理解のなさがあるような気がします。
一般的に、財の消費量が増えるにつれて、財の追加消費分(限界消費分)から得られる効用は次第に小さくなる、とする考え方。
(中略)
分りやすい具体例をひとつ挙げれば、普通、最初の1杯のビールはうまいが、2杯目は1杯目ほどうまくない、3杯目は2杯目ほどうまくない。このように1杯目、2杯目、3杯目となるほど、ビール(財)から得られるメリット(効用)は小さくなる。

・2:8の法則への理解の欠如
あまりにも一般的な言葉なので説明はしませんが、程度はあれ、これは仕事にも当てはまること。細かさに拘る以前に、大きな方向性は既に決着していることが多いです。

・クイック&ダーティーの考え方の欠如
クイック&ダーティーに高頻度で仮説検証を繰り返すという仕事の仕方への理解のなさです。なんの仮説もなく、とにかく細部に拘ってうんうん唸った挙句、成果物出してみたら目的とずれていましたということはよくある話です。


念のため言いますが「神は細部に宿る」という言葉は正しい理解においては、本当にその通りだと思います。ただ、言葉というのは人を動かす力を持つと同時に、誤った使い方をすると非常にミスリーディングで誤ったことも正当化してしまうような怖さも持ち合わせていますね、という話でした。まあ、時に人のことを言えない訳なので、自戒もこめて。

2012年2月20日月曜日

知の巨人の言葉 -『ウメサオタダオ展 -未来を探検する知の道具-』を観覧して-


先週末、日本科学未来館で開催されていた『ウメサオタダオ展 -未来を探検する知の道具-』に行ってきました。

梅棹忠夫氏(Wikipediaの解説)は民族学者であり、著書『文明の生態史観』に代表されるような独自の文明論を展開されていたことで有名です。また著書『知的生産の技術』に代表されるように「情報」「知的活動」についての方法論者としても有名で、「フィールドワーク」「京大式カード」「こざね法」といった手法を世に広められた方でもあります。残念ながら一昨年逝去されています。

展示の様子はこんな感じ。梅棹氏が実際にフィールドワークで書き溜めたノートの展示や、情報整理ツールの再現、そしてそこかしこに展示内容に関連する氏の言葉が紹介されています。




個人的には、梅棹氏の思想に初めて触れたのは『文明の生態史観』です。地理的な整理だけで東洋と西洋でものごとを論じるのではなく、文明の発達度という観点から世界を区分し、それぞれの地域毎に気候や民族特性、宗教特性、領土特性といった共通点を見出していきます。下記の整理が有名ですが、これを見てヌオッとなったのを覚えています。(説明が不十分なため読んだことある人にしかわからないと思いますが。。)


※『文明の生態史観』より

梅棹氏の全ての論考のベースになるのが、現地での人との交流や観察を中心とした綿密なフィールドワークと情報整理であり、そこから創造されるものは誰も気付かなかった視点から来る体系(システム)の整理です。このプロセスは、今私が興味を持っているデザインでキーワードになりそうな「人間中心」「システム(系)」といったところにも近いのです。(無理矢理?)

著作を読んでから時間が経っていたので、今回観覧に行き、梅棹氏の方法論や言葉に触れたことは良い刺激になりました。下記に備忘的に気に入った言葉のメモを記載しておきます。ちなみに、平仮名が多いのは私の変換忘れではなく、原文によるものです。話し言葉のような柔らかさがありますが、ここにも現地での対話を重要視し、対談の名手と言われた故人の意図が潜んでいそうです。

・全ての情報を記録し、つなげ、咀嚼する
梅棹氏は何でもノートに記録し、独自のござね法によって情報を整理します。全ての知的活動のベースは情報にあるということを再認識。

  • かれ(ダヴィンチ)の精神の偉大さと、かれがその手帳になんでもかきこむこととのあいだには、たしかに関係があると、わたしは理解したのである。(筆者注:自身があらゆることをノートに記録することについて)
  • 論理的につながっているものを、しだいにあつめてゆく。論理的にすじがとおるとおもわれる順序に、その一群の紙きれをならべてみる。そして、その端をかさねて、それをホッチキスでとめる。これで、ひとつの思想が定着したのである。(筆者注:こざね法について)
  • 情報というのはコンニャクのようなもので、情報活動というのは、コンニャクをたべる行為に似ています。コンニャクはたべてもなんの栄養にもならないけれど、たべればそれなりの味覚は感じられるし、満腹感もあるし、消化器官ははたらき、腸も蠕動運動をする。要するにこれをたべることによって、生命の充足はえられるではないか。情報も、それが存在すること自体が、生命活動の充足につながる。

・完成などない。「未知なるもの」へのあくなき探求
梅棹氏の全ての知的活動の原動力は「未知なるもの」への探究心です。未知の知というと聞こえは良いですが、知の巨人と呼ばれた人が虚心坦懐、謙虚に自分の足を使ってゼロベースでモノゴトの理解に努める姿勢は学ぶ部分が多い。

  • もともと、わたしにおいては、山の高さだけが問題ではない。いちばん大切なのは、インコグニチ(未知なるもの)ということ。デジデリアム・インコグニチ(未知への探求)、これが一番大事なことなんや。学問やってても、これは一貫している。未知のものと接したとき、つかんだときは、しびれるような喜びを感じる。わが生涯をつらぬいて、そういう未知への探求ということが、すべてや。こんなおもしろいことはない。
  • なんにもしらないことはよいことだ。自分の足であるき、自分の目でみて、その経験から、自由にかんがえを発展させることができるからだ。知識は、あるきながらえられる。あるきながら本をよみ、よみながらかんがえ、かんがえながらあるく。これは、いちばんよい勉強の方法だと、わたしはかんがえている。
  • 人生をあゆんでいくうえで、すべての経験は進歩の材料である。
  • ものごとは「完成した」とおもったらおしまいでございます。完成感覚をもったら、それは墓場の入口でございます。新陳代謝がとまれば、それは死でございます。博物館に完成はありません。

少し脱線しますが、私の今気になる人、デザインコンサルティング会社Zibaの濱口氏(@hideshione)がタイムリーに最近こんなツイートを。セレンディピティ。



・知的生産とは単なる情報処理ではなく創造活動
ここは最も言語化しにくいところではなかろうかと思いますが、最も肝要な部分であるのではないでしょうか。無から有を創る、inspirationから独創を生む、発見は突然やってくる、これらは方法論を学ぶというよりも実践を通じて会得するしかないのでしょう。

  • 知的生産は、かんたんにいえば、無から有をつくりだす仕事である。
  • 独創はinspirationである。独創をいかすもころすも、そのinspirationをとらえるか、にがすかにある。このささやかなノートも、ひとえにそのようなinspirationのreservoir(筆者注:貯水池、貯蔵庫)としての役目をはたせしめたいために、折にふれて記してゆくものにしたいのである。
  • 「発見」というものは、たいていまったく突然にやってくるものである。


・世の中はシステム
世の中のあらゆる事象は、大きく転換し、関連し合い不可分となり、全てを統合的に捉えるシステム(系)的な考え方が重要になると言及されています。(しかも大分前から)

  • 地球上の一部分でおこったできごとが、ただちに地球全体に波及するという点で、地球がひとつのシステムになりつつあるのです。
  • 世のなかはハードウェアからソフトウェアへ、物質から情報へ、そして経済から文化へとおおきく転換しはじめている。
  • 文化開発などという仕事は理念づくりだけではなんにもならない。人びとはしばしば、ハードウェアよりもソフトウェアだという。しかし頭で考えただけのソフトウェアは、たちまちにしてきえてしまうのである。それはやはり目にみえるハードウェアとしての装置と、それを運営する組織とをつくっておかなければならないのである。そのためには時間がかかる。


・まだまだ人間を理解できていない
これ「人間中心」ってことですよね。これもまたなんともvisionary。

  • 人類学は、おとなのがくもんであるとともに、おとなになるための学問である。
  • 二十一世紀の人類の生きかたにおもいをはせる。
  • 地球上で地図のない地方というのは、いまではほとんどのこっていない。地理的探検という意味では、現代はもはや探検の時代ではない。しかし、人類学的探検ということになると、それはまだはじまったばかりである。


・総じて
いや、なんとも一見簡潔で一度立ち止まって噛みしめないとスルーしてしまいそうな言葉でありながら、実際は含蓄に富む言葉たちだと思います。私は全般的に、自身の関心領域であるイノベーションとかデザインとかいう文脈で捉えましたが、皆さんはどのように捉えられるでしょうか。

最後に個人的に最も難解だと思った(と言うか未だに分からない)フレーズを。大いに悩んでみてください。

しかももっとおそろしいことは時間である。時間というものは、つぎからつぎへと際限なくわきでてくる。わたしはその時間のわくをなにかでうめることができない。ただその時間をそっと、過去におくりこむ努力をつづけるしかないのである。